停名地名不一致の謎 第4回 雄飛が丘と銀翼の沢

十勝地方の鉄道史はそれなりに数がある一方、バス史は少ないよねということで始めたこのブログですが同じく歴史があるわりにほとんど出てこないのが十勝地方の航空史です。

 

帯広周辺でバスが走り始めた頃、帯広士幌間で国鉄士幌線の開業に向けた工事も終盤という頃に十勝地方で飛行機を飛ばそうという人達がいた、と書くとそんな馬鹿なと思われる方もいらっしゃるでしょう。千歳空港もまだ完成していませんし千葉県以北に飛行場は無いとも言われた頃です。

この時十勝の航空史にとって幸運だったのは士幌線の工事で来ていた加藤勘之丞という技師がいたことです。街の青年に懸命に飛行機熱を植え付けるほどの情熱家加藤技師と血気盛んな青年たちの民間飛行場設置活動が始まります。加藤技師は発明家というニックネームを付けられるくらいに音更では有名人だったようですが、残念ながら加藤技師が士幌線工事を行っている間に資金調達に応じてくれる人物は現れず彼は今のニッタクスの新工場建設のため止若(今の幕別市街)に移ります。しかし残った地元有志は音更民間航空設置期成同盟を作り、軍の協力もあったりという時勢柄なのかトントン拍子に1925年5月13日飛行場開きを行います。

 

この前後の話はなかなか興味深いものが多く、興味を持たれた方はぜひ音更町史や飛行場跡巡りをされている方のサイトなども併せてご覧になっていただければと思います。せっかくできたこの(初代)音更飛行場は残念ながら1929年の春には使われなくなってしまいます。

 

kujikobo.com

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

 

さて、このブログの主題であるバスの話に音更の飛行場がどう関係するのか。今の緑陽台小学校の南西から鈴蘭小学校にかけての一帯に1940年市設帯広飛行場が造られます。

 

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

 

この飛行場。陸軍からすると帯広第二飛行場ですが一般には何と呼んでいたでしょうか?最初の音更飛行場は既になく区別する必要がないので新飛行場も音更飛行場。また市設というように元は民間利用を目的として都市の発展のために造られた新飛行場ですので周辺の土地に目をつけた人々は高台の上を「雄飛が丘」、手前の鈴蘭川上流の小沢を「銀翼の沢」と名付け別荘地として宣伝し始めます。言葉としては雄飛が丘に対するなら雌伏の沢でも良かったのにと思いますがそれでは語感が良くなく宣伝にはならないですね。そして雄飛が丘にある飛行場ですので雄飛が丘飛行場という記述も音更町史にあります。しかし今の緑陽台から北鈴蘭にかけての一帯が雄飛が丘というのは当然今の音更本町の高台にある雄飛が丘の位置とは違います。本当にこの辺りが雄飛が丘や銀翼の沢だった証拠はあるのでしょうか? 

戦前の非公式な地名なので何も残ってない可能性もあるかと思いましたが、この地図の真ん中を流れる川の中心付近にある公園が「ぎんよくの沢公園」と言います。平仮名ですが今となっては銀翼の沢の名を残す唯一の施設かもしれません。バス停だと拓殖バスの共栄団地が一番近そうです。この付近でかつての雄飛が丘の痕跡は現地を探索しても見つからない可能性が高そうです。 

 

さて、もう一方の拓殖バスの行き先にもなっている今の雄飛が丘。今の場所に使われるようになった経緯はよく分かりません。あくまで可能性の話と断った上で私の考えを。

音更町の字名改正は意外に遅く1976年から始まります。この時に音更本町(音更大通)の西側の丘の上にできていた住宅街に本町側と比べて細かく地名を付けました。本町側と東西で対比させると、

大通1丁目 対 柏寿台・雄飛が丘北区

大通2・3丁目 対 北陽台・雄飛が丘仲区

大通4〜6丁目 対 桜が丘・桜が丘西・雄飛が丘仲区

大通7〜11丁目・元町 対 雄飛が丘・雄飛が丘南区

大通12〜17丁目 対 住吉台・緑が丘・希望が丘・南住吉台

のようになります。本町側は元町以外大通何丁目で済むのに対し、丘の上は本町側の丁目と同じ丁目を新しい地名に付けたり、または新しい地名に条丁目制を採用することなく一生懸命新しい地名を考えて付けています。この時なるべく新地名は新しく造られる施設にちなんだ地名にしようともしたように感じられ、それは老人ホームがあるから柏寿台や緑ヶ丘病院が来るから緑が丘(ヶの字が病院と変わってますが他との統一性を考えたのでしょう)に表れていると思います。ちなみに十勝バスの音更桜ヶ丘と音更桜ヶ丘西のバス停は実際の地名である桜が丘や桜が丘西と「が」の字が違います。これは単純に違いに気付いてないだけでしょう。

 

では肝心の雄飛が丘はどうなのか?まず雄飛が丘の南隣り、希望が丘の生涯学習センターに(初代)音更飛行場跡地の碑が建っています。希望が丘にはこのほか帯広大谷短大温水プール、運動公園などの文教施設があります。北側の雄飛が丘には音更中学校や総合体育館があり同じく文教施設の一画です。

つまり希望が丘と雄飛が丘は不可能と思えた飛行場設置と飛行機導入を実現し民間航空界の進展に貢献しようとした先人にちなみ、町民や若人に希望と大志を抱いて盛んに活動してほしいという意味を込めたからこそ本来の地域から多少離れてでも初代飛行場のこの地域に二代目飛行場の通称を付けるというハイブリッド思想で希望と雄飛の名を付けたかったのだと考えます。先人の想いや願いが通じたのかどうか、音更町は北海道で一番人口の多い町になりました。

竹腰さんと野村さん

ここまでの記事や十勝バス70年史を読んだ方は既に十勝自動車合資会社は1925年竹腰広蔵氏によって創立され1928年までには竹腰氏から野村文吉氏に経営が移ったことはご存知かと思います。しかし竹腰氏や野村氏は先祖代々明治以前から十勝の住人だったかというと当然そんなことはありません。十勝バス70年史に野村氏が十勝自動車の経営に関わった経緯が載っていますがそもそも竹腰氏や野村氏はバス事業を興すために十勝に移住してきたわけではなく、ではバス事業に関わる前は何をやっていたのだろうという疑問が出てきます。これまでと大きく趣向が違いますが今回はそんなお話です。

 

十勝バス70年史に記述のあるとおり、野村氏も竹腰氏も今の滋賀県のご出身です。野村文吉氏の名前が十勝の各市町村史に最初に出てくるのは1902年10月28日に開設された足寄太駅逓の初代取扱人としてになります。初代の駅逓は芽登街道入口付近にあり1910年に鉄道駅が出来た際に市街の移動があり駅逓も神社入口(今の足寄農協前バス停)付近に移転します。野村文吉氏は一年ほどで足寄太駅逓の取扱人を辞任しますので、のちに文吉氏の子息で1906年生まれの野村勝次郎氏が帯広百年記念館の出した「ふるさとの語り部第8号」で行った受け答えに足寄時代の話がなく渡島の上磯から帯広へ引っ越したという回想も不思議ではありません。

 

さて、ここで少し気になるのが神社の入口へ移転する前の足寄太駅逓の場所です。足寄町史では「芽登街道の入口付近にあり」という三代目取扱人の上田喜七氏の長男喜一氏の話を載せています。これだけを見ると今の足寄市街南端郊南1丁目付近の国道分岐点がまさにという感じがしますが、今の国道は改良されていることを忘れてはいけません。では改良前の旧芽登街道はというと昔の地図や航空写真を見れば一目瞭然。今の足寄交番やセイコーマート、十勝バスのバス停でいうと足寄南6条や廃止になった拓殖バスの学校入口バス停のある交差点から中学校や高校へ上がる坂道が旧芽登街道になります。

足寄太駅逓の建物は38坪。これに取扱人用の畑や馬用の施設があったことを考えるとそれなりに広い敷地が必要になります。きちんと資料に当たった訳ではなくあくまで仮説ですが、足寄南6条バス停の近くにそのような広い敷地が今でも残っているかと考えると足寄南6条というバス停名になる前は足寄営業所前という名前だったとある施設が気になります。それはかつての十勝バス足寄営業所の敷地です。以前は足寄交番の南東角に駅逓跡の標柱が建っていましたが今は朽ちて倒れた様子がグーグルのストリートビューに写っています。足寄交番から十勝バスの旧足寄営業所敷地くらいまでがかつての駅逓だったのかもしれません。十勝の駅逓について一番親切に書かれているHPもご参照ください。

www.kitakaido.com

 

 さて話は戻り今度は竹腰広蔵氏の十勝入りです。竹腰氏の名前は音更町史に滋賀農場の支配人の一人として出てきます。音更町史の464ページ北糖農場の項によると「その前身は滋賀農場である。明治三十年代の末期に創設されたが、経営が軌道に乗ったのは、四十年代になってからである。」とあります。竹腰氏がいつ十勝に来たのかという情報は無く創設と同時に音更に来たのか不明です。ただ「大正十年、滋賀農場の経営者が代わったのを機に退いた。」という記述があり、この大正十年=1921年は竹腰氏が帯広で路線バス事業を始めた年と一致します。竹腰氏は滋賀農場の支配人を辞め、路線バス事業を始めたと言えそうです。

 

野村氏も1919年には既に帯広に居り、同郷の二人は当然交流もあったでしょう。もし交流がなければ十勝自動車はとうの昔に廃業し今頃十勝の路線バス事業者は十勝バスと拓殖バスではなく、大印バスと奥田自動車、中央乗合といった会社が残っていたかもしれません。昭和初期の野村氏は本業ではなかったバス事業に関わりを持ったほかにも映画館にも関わりを持つことになります。1918年に西1〜2条仲通で開業した神田館から改名した美満寿(ミマス)館という映画館で1928年フィルムから引火する事故が起こったからです。映画館事業はあまり記録に残っておらず野村氏がミマス館に関わった期間は短かったようですが、ミマス館は1977年まで存続しました。

 

面白い共通点としては両者とも十勝での始まりであるはずの地域へのこだわりがそれほどないように見受けられるところです。当然本人に確認をとったわけではなくあくまで各市町村史の記述からそう感じるだけなのですが、野村氏が足寄町への路線を持つことになるのは戦時統合の時期を除くと阿寒湖への路線から。竹腰氏が再起を期すための街として選んだのは音更町ではなく芽室町。どうしてそうしたのかはその時代の空気感を感じないと分からないでしょうが、そこに確かな商才があったから厳しい時代を乗り越え今でも十勝バスとして生き残ってきたのでしょう。

広尾線の歴代所要時間

かつて片道4時間ほどかかっていたと言われる帯広広尾間のバスですが、比較的辿りやすいこの30年ほどの間でどのように所要時間が変わってきたのか見ていきましょう。

 

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1977年夏ダイヤ時には既にヨーカドー西隣のバスターミナルが使用されており広尾線はターミナルが始発でしたがここでは比較しやすいように帯広駅前の時刻で考えます。大樹は時代によって市街中心部のバス停が変わっています。

 

1977年〜1986年は鉄道代替開始前で広尾市街は本通7丁目が終点です。上札内・尾田経由の方が更別・忠類経由より所要時間が少し長くなっています。1984年には中札内〜上札内間と上札内〜尾田間で2分ずつ、尾田〜大樹(2条通り)間で4分短くなっていますがはっきりとした理由は不明です。

1987年は鉄道代替が始まった頃で快速便の運行が始まりました。全20ヶ所しか止まらないだけあり帯広広尾間で2時間を切る俊足ぶりです。鉄道代替を始めても元からの路線に対し大きく逸脱する区間は旧大樹駅に入り込む快速便の走る部分くらいだったのもあり、普通便は鉄道代替が始まっても所要時間にそれほど差はありません。

 

帯広広尾間の所要時間が変化があるのは2001年帯広市内の経路が大通りから西5条経由に変わった時になります。この改正時にはまだイトーヨーカドーの玄関前へ入り込みをしませんでしたが帯広〜広尾(旧駅)間は再び2時間10分台になります。さらに、イトーヨーカドー玄関前入り込み、更別市街の経路変更、大樹コスモールの供用開始、広尾市街の小学校統合に伴う経路変更によって主要時間は伸び続けています。遠距離の利用者を増やすには帯広駅〜イトーヨーカドー間だけでも区間快速のような形で所要時間を短くする方法もあると思いますが、今後の路線の見直しのなかでそのような話題は果たして出てくるでしょうか?

名も高き歴史の村と光に映ゆるわが大津

広尾の話を書いたら十勝開拓のもう一つの祖、十勝の母なる村とも言うべき大津の話も遅れるわけにはいきません。ということで今回は旧大津村とそれに連なる浦幌町豊頃町の路線バスの話をします。旧大津村の現大樹町の地域については大樹と忠類の回で書いています。

 

開拓初期に函館から十勝内陸部へ行くための交通手段は陸路はあまりに険しく、大津まで海路で来て丸木舟に乗り換え川を遡るのが一般的でした。と書くと十勝川をずっと遡ったと思われがちなのですが、大津まで十勝川本流になったのは1963年からでそれまではかつてのバス停でいうと旅来や渡船場入口の辺りから十勝川本流は地名で見ると至極当然ですが十勝太の方に流れていました。大津の方への流れは大津川という名前の川で、つまり大津から船に乗ると最初は大津川で旅来から十勝川本流に乗るということです。

帯広から大津へ行くには下りなので良いとして大津から帯広へ行く川上りは四日弱かかることもったそうです。川舟はやがて丸木舟一辺倒から利別太(今の利別駅の南方)まで七十石舟、武山(今の幕別駅の北東方)まで五十石舟、帯広まで二十五石舟と川の状況に応じて使い分ける時代になりますが、舟であることに変わりはなく帯広までの川上りは風がないとかなりの労力を要したそうです。一方でこの時代の利別太や武山の市街は舟の積荷や人の乗り換えの一大ターミナルとなっていて当時にしてはかなり大きな市街になっていました。

 

この地の本格的な道路の始まりは1893年大津芽室間で開通した大津道路です。大津道路は本来新得まで造る予定でしたが、芽室川高台で予算を使い果たしそこがとりあえずの終点となりました。しかしこの時代の道路はまだ脆弱で大津〜帯広間の主な交通手段はまだ舟運です。

1898年には釧路川で使用した汽船を購入して大津帯広間で運航する計画があったものの実現せず、1900年代に入ると十勝地方に東の釧路から鉄道が伸びてきます。1903年に音別〜浦幌間、1904年に浦幌〜豊頃間、同年末に豊頃〜利別間、1905年には帯広まで開通。1907年には西の旭川から伸びてきた線路と繋がりいよいよ時代の主役は鉄道となります。

鉄道が釧路から十勝地方に伸びてきた頃から大津の凋落は始まります。鉄道が直接的な原因でもあるでしょうが、舟運自体が鉄道のある釧路や広尾と比べて港として決して良港とは言えない大津を回避するようになったり商習慣も舟本位の函館から鉄道本位の小樽が主役となったという間接的な鉄道起因の時代の変化に大津が対応しきれなかったことも大きいように見受けられます。

対釧路だけではなく対広尾でも大津の凋落は止められず、舟による旅客輸送においても1909年に乗降した旅客数は大津540人広尾168人だったのが1912年には大津95人広尾1488人とまだ広尾に鉄道がなかったにも関わらず大きく差をつけられてしまいます。

以後、大津は純然たる漁港として存続していくことになります。

 

この地域における最初の記録に残る陸上旅客輸送は現在の豊頃町側で1924年頃茂岩の中鉢氏が8人乗りの客馬車を茂岩豊頃間で運行したのが始まりとされています。翌1925年には池田の三寺氏が箱型ジープで豊頃〜茂岩〜大津間を不定期ですがバスとしての運行を始めます。

1927年小樽で運搬業を営んでいた名畑仁太郎氏が大津帯広間で定期乗合自動車と貨物輸送のため大印自動車を設立して大津の旧長嶋宅に事務所を置き後に茂岩へ移転しました。会社の開業なのか路線の開業なのか不明ですが豊頃町史には5月12日に開業と書かれています。運転回数は帯広茂岩間で6回、茂岩大津間で4回。乗客はまだ少なく2、3人であったそうです。広尾町の回でも書いたとおり、大印自動車は同年7月には帯広広尾間でも路線バスの運行を始めます。もし大津の繁栄がもう少し長く続いていれば大津〜帯広〜広尾の路線を持っていた大印自動車は戦前の十勝地方において一番大きな路線バス事業者になっていたかもしれません。

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(大印自動車の車両。豊頃町史882ページより一部を抜粋)

 

浦幌町側における最初の路線バスは1929年6月、浦幌駅前〜留真駅逓間で大津の横野勇氏が始めます。( 浦幌町史では昭和三、四年頃という表現ですので本別町史の記述を元にしています)横野氏は今の豊頃町側でも自動車貨物輸送も行ったようです。

同じ1929年には豊頃町側で船津好文氏が茂岩と二宮農場がある小川や湧洞への路線を朝晩2回の運行で始めますがこちらは1937年に運行を中止し、その権利を名畑氏へ譲ります。この1929年には茂岩〜豊頃間でも路線バスの運行が始まったのですが誰に対して認可されたか不明です。可能性として高いのは大印自動車か船津氏、低いながらもありえなくはないのが帯広の十勝自動車でしょう。

 

その十勝自動車の浦幌進出は浦幌町史によると1940年8月4日浦幌駅前から留真間と浦幌炭砿間で「無許可運行したのが浦幌における業者によるバス運行の最初である」という記述があります。浦幌〜留真間で最初に運行した横野氏がその後どうなったか分からず、無許可の意味が横野氏から十勝自動車への権利の移譲が行われないまま運行を始めたのかどうかも不明ですが留真への路線は1944年に、浦幌炭砿への路線は1951年に認可されています。

 

戦後の新規路線は1951年の年末12月28日に認可され翌1952年5月13日に運行を始めた本別活平間の路線ですが、タイミングとして帯広乗合に認可され帯広乗合から分割した道東バスが運行したことになります。また1951年には帯広乗合(今の十勝バス)茂岩営業所が置かれます。

1952年(豊頃町史883ページによる。882ページ本文中では1953年12月、十勝バス70年史113ページには1953年10月認可という記述あり)には帯広〜茂岩〜小川の運行が帯広バスによって、その小川を通る大川〜茂岩〜豊頃〜池田間の運行は国鉄バスによって1953年12月から始まります。

 

1955年4月1日は帯広乗合自動車株式会社が十勝バス株式会社へと社名を変更した日でもあり、この地域にとっては大津村がそれぞれ隣接する浦幌・豊頃・大樹へ三分割された日でもあります。帯広乗合も3年前の1952年に帯広乗合・拓鉄バス・道東バスへと三分割されましたが大津村の三分割は大津村自身が残らない三分割なのが異質なところです。

さて大津村と違い分割を経ても残った十勝バスは茂岩湧洞間の路線も再開し、これで戦前の船津氏によって始められた茂岩から小川と湧洞への二路線が再開されたことになります。同じ1955年には道東バスの活平から留真までの路線延長が4月14日認可、7月29日運行開始。10月26日には帯広浦幌間が認可され即日運行を開始、1958年には茂岩農野牛間の運行も始まり十勝バスにとって茂岩や浦幌営業所は芽室と同じくらい支線の多い一大拠点となります。

その後運行が認可された浦幌町内の十勝バスは1960年3月の十勝太線、1967年6月の上厚内線、1969年6月の留真温泉線の三路線があったようで「毎日乗客の喜びを乗せて、快走しているのである」と浦幌町史には書かれています。一方閉山に伴い人口の大きく減った炭山地区への路線は1964年に廃止になっていっています。

 

浦幌町史の記述は今となっては素敵だなと感じるものが多く524ページには「この両社(十勝バスと道東バス)の運行によって、長い間交通不便に悩んでた沿道の住民は、太陽を得たような喜びにひたったのはいうまでもない。学校統合を進めた本町が、一部スクールバスとしての利用もあり、日々快速に走り続けていることは本町進展上、大きな役割を果たしているともいうべきであろう」とあります。その一方で路線バスの車両は快走したものの経営はそうはいかずこの浦幌町史が出された1971年3月から半年後の9月に浦幌町北部の旅客輸送を担っていた道東バスは十勝バスと合併することになります。

バス会社が合併するくらいに地方における過疎化は進行し、そうなると先に出てきた通り学校の統廃合という問題も各市町村を悩ませることになります。父兄の通学費負担の問題で上浦幌地区の活平・上浦幌・貴老路・川流布・川上の中学校五校の統合は費用負担が少ない道東バスの既存路線バスを登下校に利用することにします。道道を走る道東バスの本別〜留真間の路線沿いに住んでいるバスに乗って通学できる生徒は良いとして、1963年の段階で運休になっていた道東バスの本別〜川上間は通学には使えず川上や川流布地区の中学校通学にはハイヤーが当分の間使われることになります。

また1967年には常室・留真の両中学校の浦幌中学校への統合の動きも始まります。上浦幌の統合の結果次第だったのでしょうが、通学に路線バスが使えれば通学費の負担が少ないと分かるや積極的な動きになっていきかなり速やかに浦幌中学校への統合が決まります。常室や流真から浦幌中学への通学にはこちらも従来から走っていた十勝バスが使われることになります。

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浦幌町史739ページより一部抜粋)

 

中学校の統合に伴い見直されるかと思った町内完結の支線的路線バスですが、1966年に茂岩〜湧洞間が運休、1984年までに留真〜留真温泉間を廃止、1984年夏を最後に大津〜長節湖の区間休止、1987年に浦幌〜留真間、1993年4月に茂岩〜大津間と茂岩〜小川間、2011年に本別〜留真間が廃止されるという暗い話題が続きます。

この地域において都市間バスを除いた新しい話題といえば1998年から始まったと思われる新川発浦幌行きです。浦幌8時30分発の帯広行きの送込みを全行程回送にせず、新川から浦幌高校最寄りの浦幌営業所まで営業させて主に浦幌高校の通学需要を取り込もうという狙いで始まりました。

しかしながら浦幌線自体が乗客の減少に悩んでいるなか収支の好転は望めず、2007年4月1日に幕別町の東緑町団地〜浦幌営業所の浦幌線が廃止されます。帯広釧路間を既に走っていた都市間バスのすずらん号で代替輸送を兼ねることになりますがこちらも2011年4月1日に、また同じ年の2011年7月1日には本別〜留真間にかろうじて残っていた留真線も廃止されこれをもって旧大津村と浦幌町豊頃町から民間の路線バスは完全に撤退したことになります。

 

浦幌町豊頃町・大樹町の旧大津村区域に関係するバス路線図(同時に全て存在していません)

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 (黄色は現在の十勝バスが始めた路線、赤色はかつての道東バスが始めた路線、水色はかつての大印自動車が始めた路線、青色はかつての国鉄バスが始めた路線)

 

 この路線図を見ると生花苗や晩成の旧大津村の住民が村役場のある大津市街へ行くのにものすごく苦労していたことも、三分割の際に大樹町ではなく忠類村(現在の幕別町忠類地区)への編入を望んでいたのも納得できると思います。

 

もし皆川周太夫松浦武四郎の意見のように大津川を締め切って十勝川河口港が建設されていたら、もし東京ヨリ根室縣ニ達スル路線こと国道四十三號が早いうちに完成していて大津から生花苗まで路線バスが運行していたら、もし道庁の計画通り十勝太に十勝太河口都市が造られ十勝太に鉄道駅ができていたら、もしもっと早く十勝河口橋が完成して大津〜吉野〜十勝太〜浦幌という大津村と浦幌町を行き来する路線バスが走っていたら。そのどれか一つでも実現していたら大津村が合併することは昭和時代にはなかったかもしれませんし、今頃十勝で一二を争う規模の市街に十勝太がなっていて十勝太駅前にはバスターミナルがあったかもしれません。

 

十勝太の新市街地計画や鉄道駅誘致についての記事をいくつか紹介します。

 

www.hk-curators.jp

 

sapokachi.cocolog-nifty.com

 

色々な意見があると思いますが魚族が近寄らなくなるから鉄道反対などというトンチンカンな言い伝えの噂話を信じるよりは、鉄道誘致期成会を立ち上げた人もいれば土地を寄付しても良いと言った人がいたけど叶わなかったという話を信じたほうが遥かに身のある話ができると思います。

尾田廻りと忠類廻りの路線バスのこと

更別村広尾町の間にある大樹町と旧忠類村こと今の幕別町忠類地区。広尾から分村した際には大樹と忠類で大樹村でした。旧大樹村時代最初に定期運行した乗合自動車は1925年の奥田自動車でこれに続く大印、十勝、金線といった事業者も道路としては広尾道路を通ったことになるので大樹市街から帯広を目指すには歴舟川沿いに尾田や上札内を経由したことになります。

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(戦前の路線図)

 

戦後になると広尾や池田、本別などと同様に国鉄自動車の営業所が置かれ1948年4月20日から先ず貨物輸送を始めます。大樹町史によるとこの時幕別町糠内にも派出所を置いたとのことです。忠類市街にも派出所を置く予定だったそうですがこちらは実現しなかったようです。同じ年の11月3日から大樹〜糠内〜大正の52kmで、また1957年7月18日には駒畠から勢雄~更別~大和~大正~藤経由の大樹帯広間でも旅客輸送を始めます。

大樹からの支線は1952年7月20日の浜大樹線から始まり、1953年7月15日の石坂経由の旭浜線、1955年8月5日には忠類を経由する生花線と海岸線を目指す路線を増やしていきます。生花線は1960年11月1日には晩成まで延伸しますが最初のうちは生花苗から晩成までの間は冬季運休だったそうです。

 

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(1960年12月の路線図。黄色が十勝バス、青色が国鉄バス、駒畠~更別は運休)

1960年6月に大樹本町のバス停の西側付近に十勝バス大樹営業所が置かれ運転手・車掌ともに3名ずつ配置されます。また、更別村の回でも書いた通り旧国道(広尾道路)の尾田と上札内の間の難所である無願坂を避けるバイパス工事が完了した1962年6月1日に十勝バスの大樹~忠類~更別~中札内経由の新線が開業して大樹忠類間は二社競合となります。当初は十勝バスが3往復、国鉄バスが2往復でしたが十勝バスは1969年には上り8便、下り6便と大きく運行回数を増やしています。

1962年12月21日に国鉄バスの旭浜線は石坂駅を通る経路を大樹駅からまっすぐ東を目指し今の国道336号線を通る中島8線経由へと変更します。1964年6月10日には浜大樹線の美成までの運行も始まりました。

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(1962年年末の路線図)

 

 大樹忠類間は二社競合、ということは当然バス停は両社の二つが並んで立っていたのですが分かりやすい画像はないかと探していたら良いものがありました。

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 (忠類村の二十年、7ページより一部抜粋)

 

場所は今の忠類バス停なのですが当時は待合室はなかったのでバス停は国道上に置かれていました。左の人が多いほうが国鉄バス、右が十勝バスのバス停です。

 

国鉄バスの再末期は昔の時刻表の回でも載せていますが運行経路は既に書いた通り、便数や運行時間帯は運行開始から廃止までそう変わらずに最後まで運行されていたようです。池田や本別・芽室では1970年代のうちに各町の中心街で国鉄バスに乗ることは難しくなってしまいましたので、そう考えると大樹の国鉄バスは十勝管内のなかでは使命を全うした路線と言えるかもしれません。大樹町内の国鉄バス三線1984年6月1日に廃止されます。

 

1987年2月1日に国鉄広尾線が廃止され翌日から代替バスが運行されます。とはいえそれまで鉄道よりも長い期間バスが走っていたわけですから、路線バスの事業者側から見てそれまでと大きく変わった点は快速便を運行すること、依田北愛国経由の区間便こと依田線と帯広~中札内・更別・忠類の各村発着の区間便を増発すること、広尾市街の終点を延長することです。

広尾線沿線の各市街地ではほぼ駅前通りと既存のバス路線との交差点に新しくバス待合室を設置することができましたが、代替バスを運行した十勝バスの既存のバス路線と旧駅前が離れていた市街地が二つありました。一つは広尾でこちらは旧駅舎をバス待合室に転用することもバス路線を旧駅前に入り込ませることも無理なくできましたが、問題は旧駅舎にバスが立ち寄ると既存の利用者が大きく不利益を被る大樹でした。もし雪印の工場が駅の近くにあったなら旧駅舎に立ち寄ることは容易いですし、もし十勝バスの大樹営業所が早くから国道沿いにあったなら旧駅舎に立ち寄る必要性は低くなりますが旧駅前周辺の商店街からは旧駅舎を活用してほしいと言われます。

結局、大樹の解決策として既存の普通便は代替バス運行後も従来と同じく広尾線雪印前・鏡町経由で大樹線は2条通りまでの運行とし、新設の快速便は本町~大樹(旧駅舎)~(麻友通過)~石坂という新経路で運行をすることになりました。

 

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(1987年2月の路線図。破線が新設の快速便の経路)

 

その後栄定男氏の乗合自動車から数えると82年、奥田自動車部の定期運行から数えると76年のの歴史があった上札内経由(もっとも大樹側の人は上札内経由と言わず尾田廻りという表現を使っていましたが)の路線バスが2001年3月31日で廃止されました。廃止当日かその前後かはっきりと覚えていないですが十勝毎日新聞の記者が廃止直前に惜別の乗車記事を掲載していました。歴史の長さで比べるなら大津線も廃止になった時に同じ扱いであってもおかしくないのですが大津線の惜別記事というのは見かけた記憶がありません。

十勝バスにとって広尾本線とも言うべき上札内経由(尾田廻り)の長い歴史はこうして終わってしまいました。もし国鉄広尾線が上札内経由で走っていたら、もし国鉄広尾線幕別から分岐していたら、考えても意味がないことですがもし万が一そうなっていたら上札内・元更別・尾田の市街地には今と違った未来があったかもしれません。

しかし、今ある更別経由(忠類廻り)の十勝バス広尾線もあと数年で60周年を迎えます。帯広空港線や大正小学校線という支線も残っていて本線たる風格は十勝地方の中では今でも随一と言っても差支えないでしょう。

広尾行きのバス会社全7社の記録を辿る

十勝で最も歴史のある町で最南端の港町広尾。十勝地方に鉄道が来るまでは十勝で最初のものが広尾から広まったり最古のものが今も残ったり。内陸の帯広が拓けるまでは広尾と大津が十勝で一二を争うくらい勢いのある町でした。そんな広尾の街に路線バスが走った記憶を探してみましょう。

 

広尾市街に乗用自動車が登場したのは1918年10月9日。元河西支庁長諏訪鹿三氏が選挙運動(何の選挙かは不明)のために帯広の笹島吉治郎氏が営業許可を受けた車に乗ってやってきたのが最初と言われています。季節は秋で農作物の出荷がピーク。広尾までの道中、見慣れぬ自動車に驚き転覆したり側溝に落下する馬車が続出し到着は遅れ、広尾市街入口である楽古の坂上に着いたのは夜の8時になったそうです。そこで一行が見たのは火事のような明るさにに包まれた広尾市街地でこれは大変と急いで駆けつけてみればなんのことはない。その日は広尾市街に初めて電燈の灯りが点いた日でもあったのでした。この時の自動車を運転していたのは山畑竹之助氏。この山畑氏は後に広尾の路線バスに大きく関わっていくことになります。

 

広尾最初の乗合自動車は1919年の秋(月日は不明)栄定男氏が帯広までの運行を始め、続いて1922年(月日は不明)に竹腰広蔵氏、奥田太郎氏、秋山某氏と続々と事業を行う者が現れます。栄氏が始めた頃の帯広までの運賃は一人15円もしくは20円だったものが10円になり、奥田太郎氏の奥田自動車部が定期運行を始める1925年(月日は不明)には運賃は5円28銭になります。1926年3月1日に十勝自動車合資会社が発足しますが代表者は竹腰広蔵氏、無限責任社員は山畑竹之助氏と栄定男氏という広尾で乗合自動車事業を始めた者が多い布陣になっています。

芽室町の回でも書いたように1928年の年始までには十勝乗合の代表者は野村文吉氏に代わり竹腰氏は帯広の西隣の芽室で新たに乗合自動車事業を始めますが、同じく広尾では山畑氏が元野元吉氏、高松彦三郎氏、佐藤富治氏と新たに乗合自動車会社を興します。それが1928年9月22日に創立した(広尾)金線自動車合資会社になります。広尾金線は翌1929年6月から郵便物の逓送を委託され1931年には26人乗りのバス車両を導入するなど順調な滑り出しをしたように見えました。

 

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 (広尾町史年表より一部を切り抜き転載。上が金線自動車)

 

1929年11月2日に国鉄広尾線は中札内まで開業するものの広尾まではまだ遠く、広尾帯広間の旅客輸送は乗合自動車が主流でしたが事業者が広尾金線・十勝自動車・奥田自動車・大印自動車の四社と多く競争はやがて行き過ぎた運賃値下げへと発展します。

それまでも1926年7月21日の東京相撲帯広興行では往復6円、国鉄広尾線が大樹まで開通した1930年10月10日大樹で行われた式典参加者を狙い広尾大樹間を1円で運行したりしていましたが、1931年には広尾帯広間で1円、ついには更に半額の50銭にオマケの手拭いを付けるというところまで行き着いてしまいます。

この競争に一番迷惑したのは広尾市街でタクシーを営業していた福西芳夫氏や(東陽館の)元野栄太郎氏で「帯広まで行っても50銭でオマケに手拭いまで付くのにお前のところは隣まで行っても50銭とは何事だ」と言われ非常に困ったそうです。話は逸れますが東陽館の元野氏の災難はまだ続き1935年7月にシボレーの新車を購入したのに9月26日には大時化の黄金道路目黒橋先で激浪にその車を奪われてしまいます。

 さすがに50銭時代は長く続かず1932年9月21日広尾金線は廃業になってしまいます。すると翌日十勝自動車と奥田自動車は運賃を前日までの3倍の1円50銭に引き上げます。

 

十勝・奥田という二大バス事業者の他に十勝地方の海岸沿いではもう一つ忘れてはいけないバス事業者がいます。それが大津帯広間や止若糠内間などで力をつけていた大印自動車合資会社です。なぜか広尾町史、新広尾町史共に大印自動車についての記述が本文中にはなく資料や年表に載っているのみなのですが、その大印自動車は大樹町史によると1927年7月に広尾帯広間の運行を開始し、広尾町史年表125ページによると1934年に広尾〜サルル間を大型50人乗りバスで試運転したそうです。この路線、広尾町史年表ではサルルと書かれていますが十勝バス70年史の32ページの大印自動車の項ではルベシベツと書かれています。大印自動車のサルルがどこかは不明ですがこの路線を受け継いだであろう十勝バスの広尾〜ルベシベツ間は路線距離が11.92kmでこれは今のジェイ・アール北海道バスの留別バス停とほぼ同一です。大印自動車の広尾サルル間の本運行は同じ1934年11月3日からとのことですがどこに車庫を置いたかは分からず仕舞いです。車庫といえば同じ1934年の12月には十勝自動車は本通7丁目に支店車庫を新築したそうです。

 

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(1934年末の広尾町内バス路線図。黄色は十勝自動車、水色は大印自動車、奥田自動車や大印自動車が広尾市街のどこを起終点にしていたか不明)

 

 戦後の1946年11月25日には省営バスことのちの国鉄バスの運行が様似へ2往復、日勝目黒へ3往復で始まります。最初の仮庁舎は楽古の廠舎に置かれますが翌1947年12月には今の帯広日産広尾店の場所である当時の字茂寄基線1に移転します。町史には事務所車庫職員宿舎が街の形態に一層の重きを加えたと書かれています。

また、1954年11月からは今の十勝バスである帯広乗合の広尾〜豊似〜上豊似2往復の運行も始まります。

 

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(1954年末の広尾町内バス路線図。黄色が帯広乗合、青色が省営バス)

 

国鉄末期の1981年11月20日国鉄バス広尾支所は今の十勝バス広尾営業所の場所へ移転して広尾市街の路線が丸山方面で少し延長されます。

 

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 (1981年11月20日広尾町内バス路線図。黄色は十勝バス、青色は国鉄バス)

 

1987年2月1日に国鉄広尾線は廃止され翌日から鉄道代替バスが十勝バスによって運行されます。この改正で十勝バスは旧広尾駅に入込みを開始して快速便は旧駅前が終点、普通便は7丁目から延伸して役場前が終点になりました。JRバスは再び旧駅前が起終点に戻りました。

 

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(1987年2月2日の広尾町内バス路線図。黄色が十勝バス、青色がJR北海道バス

 

この後1993年4月までに十勝バスの路線は快速便の旧駅前終点普通便の役場前終点を役場前〜柔剣道場前〜神社前〜丸山3丁目〜桜ヶ丘団地〜営業所まで延伸運転したり、1994年4月改正から1999年11月までシーサイドパーク前への入り込みを開始したり、

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(1993年4月の広尾市街バス路線図。JRバスは変更がなく省略)

 

更に2011年4月には広尾小と広尾第二小の統合で遠距離通学になる児童救済のため経路を変更した今の形に至ります。

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(2011年4月の広尾市街バス路線図。旧広尾小学校は役場北側。新広尾小学校は旧広尾第二小学校の校舎を使用。JRバスは変更がなく省略)

 

広尾市街に存在したバス会社の車庫。

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(黄色まは十勝バス、青色は国鉄バス、白色は金線バス。丸数字は置かれた順番)

 

最後に山畑竹之助氏について。本通12丁目に山畑商店という今は製麺を主にする会社があります。町史の本文では特に記述がないのですが1959年4月の町内商工業者の現況一覧に山畑商店と山畑竹之助氏の名前が出ています。同一人物なのか初代と二代目なのか分かりませんが金線自動車の後は米穀食品業になり今の山畑商店に至っているのかもしれません。

 

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広尾町史551ページより最下部の電話番号を省いて転載)

国鉄バス対十勝バス 4線5線戦争番外編!芽室町での戦い

帯広の西隣芽室町。最近廃止から復活した清水町から帯広への路線バスが話題になりましたがもともとはどういう路線が芽室町内にあったのでしょうか?芽室町史は五十年史、八十年史、百年史とありますが交通の章の路線バスの記述が一番緻密だったのは八十年史だったのでここでは八十年史をもとに見ていきましょう。

 

芽室での路線バスの始まりは1928年5月15日竹腰広蔵氏の第一自動車商会による芽室〜上美生・上伏古の循環路線です。竹腰氏は1921年に帯広から音更・広尾と帯広市街の路線バス事業を始めて1925年に十勝自動車合資会社を創立した方です。1928年の年始に十勝自動車の経営の実権は野村文吉氏に移っていたようで竹腰氏はその年の春に芽室での路線バス事業を始めたということになります。

芽室駅北側の本通2丁目(第一自動車商会前)を起点に中美生〜上美生〜20号道路〜上伏古〜10線8号(坂の上)を経て芽室に戻る路線で始まりましたが乗客の少なさと20号道路(今の道道55号清水大樹線)が悪路でのちに芽室〜上美生と芽室〜上伏古の二系統に分かれての運行になります。この時の芽室上美生間の運賃は40銭で車両は客席5名運転席に運転手1名助手2名が乗るホロ型ということです。

 

1930年6月10日には野村氏の十勝自動車(芽室町八十年史には帯広乗合自動車株式会社と書かれていますが当時はまだ十勝自動車合資会社のはずです)の帯広芽室間の路線で運行が始まり、翌1931年7月11日には芽室清水間、同年11月10日には帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室の今でもあれば芽室北線と命名されそうな路線も運行を開始します。

 

戦後の新規路線開業は1948年6月10日、今の東2条南1丁目に国鉄バスの帯広自動車区芽室支所が置かれ西士狩線(帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室)と平和線(芽室〜祥栄〜平和〜元駅逓)の二路線で始まります。

民営では帯広乗合が1950年8月10日に帯広〜芽室〜毛根〜熊牛〜屈足の屈足線、翌1951年9月1日に上伏古線から枝分かれする形の芽室〜坂の上〜13号道路〜上帯広の上帯広線の運行を始めます。また戦時中は休止していた芽室北線こと国見・西士狩経由の帯広芽室間を1951年10月に再開させます。国鉄バスが国見・西士狩経由の帯広芽室間の西士狩線の免許を受けることができたのは同じ経路の帯広乗合が休止していたからなのでしょうが、芽室北線が再開されて競合で大変だったのではと思う間もなく国鉄バスの西士狩線は半年もたず1948年11月3日に休止となります。(廃止は1972年6月1日)

国鉄バスの芽室支所の廃止は早く1952から1953年の間ですが帯広から回送で芽室まで来る形態で支所廃止による運行への影響はなかったそうです。芽室支所の施設は芽室町の土木車両の車庫、職員住宅は町職員住宅に使われたそうですが1964年の大火により共に焼失しています。

 

1955年に帯広乗合(帯広バス)から社名を変更した十勝バスとはその後も路線の申請合戦の体で芽室西部方面は1954年9月1日に国鉄バスが芽室〜高岩〜渋山〜旭山〜御影の運行を始めれば1956年2月20日に十勝バスが芽室〜高岩〜上芽室〜御影の御影線を始め更に国鉄バスは1957年11月に自社線の南側を通る芽室〜高岩〜報国〜渋山〜上渋山の枝線を始めると言った熾烈な競争が始まります。

ちょうど帯広市内でも緑ヶ丘病院や帯広南商業高校が出来る頃で国鉄バスと十勝バスで4線5線戦争が始まろうとしている頃ですが同時に芽室町でも戦いが始まろうとしていました。帯広市内4線5線戦争の余波なのか単なる路線延伸政策の一環なのかの判断は読んだ方にお任せしますが芽室町内の東側でも競争が激しくなってきて1956年2月16日には国鉄バスが芽室と帯広両方向から北伏古や日の出まで、1959年5月にはついに日の出から上帯広の対岸にある栄まで進出してきます。これには十勝バスもたまらず3ヶ月後の1959年8月12日から芽室〜上帯広間の経路を坂の上(10線8号)経由から農業試験場〜6線経由へと経路を変更して反撃を開始します。元の経路の10線8号から13号〜6線〜共栄〜上伏古〜10線8号という循環線も運行を始め二重に防衛線を設定して国鉄バスの南進を阻止しようとします。

さすがに競争が厳し過ぎると感じたのか両社ともこれ以降は他社の運行エリアを伺うような路線の申請は1960年10月14日の十勝バスの芽室から毛根〜関山〜上関山の路線が最後となり、国鉄バスは祥栄の東の北明地区に1962年10月1日、十勝バスは1961年8月5日に上美生の先の雄馬別循環や観光シーズンの日祭日のみ運行の伏美湖といった自社線の延長に重きをおくようになります。この時代最後の新規路線は1965年1月11日の十勝バスの南2線経由芽室線(芽室南線)になります。

 

1965年夏の芽室町両社路線図(国鉄の西士狩線は既に休止ですが廃止にはなってないので図に掲載してます)

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(黄色実線は十勝バス、青色実線は国鉄バス、青色破線は十勝・国鉄道南バスの日勝スカイライン。高岩・上芽室経由の十勝バス芽室御影線と毛根経由の上関山線は経路がきちんと分からず不掲載)

 

1966年になると両社の戦線も落ち着きだしたのか休止路線が出てきます。年初には十勝バスの高岩・上芽室経由御影線、11月5日には国鉄バスの報国経由上渋山線。1967年2月1日には十勝バスの西士狩線が休止、1969年7月14日には農業試験場〜上帯広が区間休止、10月27日には上美生〜伏美湖の区間と上関山線が休止。そして1970年になると12月25日に平和・北明・元駅逓方面の国鉄バス平和線が、3日後の12月28日には既に休止していた上渋山線と御影線が廃止になります。

1971年8月2日には芽室町国鉄バスの車両の払下げを受け町営で廃止された上芽室・上渋山・平和方面で代替バスの運行を始めます。池田町同様廃止後即町営バスが代替できたわけではないですが池田町の時よりは早く町営バスの運行が始まったのは池田町の苦労のおかげかもしれません。

路線の休廃止は止まらず、1972年3月23日には休止していた十勝バスの高岩・上芽室経由御影線が廃止、3月31日には国鉄バスの芽室〜大成〜北伏古線が休止、6月1日にはその国鉄バス大成経由の北伏古線と1948年に休止になって以来すっかり忘れられたいたのかどうかは分かりませんが西士狩線の二路線が廃止になります。そしてとうとう1973年3月31日には芽室駅前から唯一発着していた国鉄バスの芽室〜北伏古〜栄小学校間(日の出線)も廃止となり芽室駅を発着する国鉄バスがいなくなってしまいます。(北伏古には帯広からの路線もありそちらはもう少し残ります)

 

1981年夏の芽室町両社路線図

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 (黄色実線は十勝バス、青色破線は十勝・国鉄バスの日勝スカイライン、帯広発着になった国鉄バス北伏古線は省いています)

 

十勝バスのその後は1985年夏ダイヤでは新得線の急行運転取りやめ各駅化、1987年には上伏古線、上美生線の両線が廃止となります。1991年夏ダイヤでは帯広市内の経路がそれまでの国道38号線直通から南1線柏林台北町経由へと変更されました。朝の十勝支庁への通勤や柏葉高校通学者救済のため上り1便のみ道職員住宅のある芽室東5条や国道38号線・帯広西2条通経由の帯広駅行きは残されたものの大胆な組み替えでした。

1993年夏ダイヤでは芽室南線の一部を大谷高校経由にした芽室大谷線を、1998年8月1日には上伏古・上美生線廃止後バスの走らなかった芽室市街鉄南地区を走る鉄南循環の芽室線の運行が始まります。

 

1998年の芽室市街十勝バスの路線図

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(実線は30系統芽室線、丸破線は31・33系統、長破線は32・34系統緑町終点、短破線は30系統芽室循環線)

 

2002年夏ダイヤをもって新得線、芽室市街の鉄南循環、大谷高経由の芽室南線はそれぞれ廃止、2009年夏ダイヤでは国道・南1線柏林台北町経由の帯広駅前発着便を全廃し芽室市街の循環線化など色々な取り組みをして先日の清水芽室間再延伸こと清水帯広線の新設に至ります。

 

2009年の芽室市街十勝バス路線図

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(実線は31系統、破線は通勤通学バスことS12系統)

 

以下に芽室町内の路線バスにまつわる年表を載せます。抜けてるところもあるのですが少しでも皆様の理解の一助になれば幸いです。

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(黒字は新規開業または延伸、黄字は休止、赤字は廃止、青字はその他のトピック)

注1.1966年11月5日の国鉄バス上渋山線運休が脱落

注2.1987年の十勝バス上伏古線・上美生線の廃止が脱落

 

最後になりますが芽室町八十年史では十勝バスの西士狩線は廃止になったという記述をついに見つけることができませんでした。もしかしたらのちの中鈴蘭線や緑陽台経由音更線に西士狩線の一部区間が流用されたのかもしれません。