帯広のズレを楽しむ会 第1回

集まれ!北海道の学芸員のコラムリレー第24回に帯広市街の話があります。

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この話に出てくるのは今の十勝バス1系統循環線の東4条14丁目バス停のある交差点に交わる営林局通という道路です。かつての十勝バス東営業所のすぐ側で数年前まで教会前という名前のバス停でした。このズレは端的に言うと殖民地区画の南3線と市街地区画の南13〜14丁目とでは一区画の基準が違うので基準の境界が重なる所にズレが生じるということで、この東西の道路が滑らかに通行できるよう今は東大通(東4条通)の東側の道路の線形を変更していますが以前は東西方向に通行しようとするとシケイン状になっていました。

 

 

 

コラムではこの一か所を紹介していますが帯広市内でバスに乗っていると他にもこうしたズレを感じる所がないだろうかと気になります。

 

東4条14丁目から1系統循環線をそのまま帯広競馬場のほうへ乗り通すと西南大通から白樺通へと右折します。白樺通は南9丁目と南10丁目の間の道路ですから西9条9丁目のバス停では競馬場・本社行きは西向きなので当然道路の右(北)側が南9丁目左(南)側が南10丁目になります。バスは次の西11条9丁目にさしかかるとウツベツ川を渡る橋の前後で緩やかな右S字を描いてカーブします。そして帯広競馬場前の交差点にある信号の住所表示を見るとどうしてか右を見ても左を見ても西13条南9丁目になります。

 

 

 

南9丁目と南10丁目の間を通っていたはずなのにどうして?とパニックになることはありません。あなたの今いる場所は市街地区画の南9〜10丁目の間の道路ではなく殖民地区画の南2線の道路だからです。植民地区画の真ん中に帯広市街の市街地区画を作ったので基準の線(国道38号線と大通)以外ではどこかでズレが発生して気付かないよう真っ直ぐ走るためにどこかで調整しているのです。南2線と白樺通では根室本線の鉄道高架完成後このウツベツ川を渡る辺りで調整しています。高架になる前は根室本線の踏切(西6条)から西5条の間で調整していました。西5条通がアンダーパスだった頃上を走る9丁目道路が斜めに架かっていたのはそのためです。なかなか良い画像がなかったので昔の帯広市広報のリンクを紹介します。昔の航空写真を見た方が斜め具合はわかりやすいです。

http://www.city.obihiro.lg.jp/d-koho/d100102backnumber.data/11.2007-01.pdf

帯広市広報はpdfです。一番最後のページにアンダーパスの画像がありますが斜めになっているのはちょっと分かり難いです)

 

では、南3線と新緑通(南13丁目〜14丁目)や南4線と春駒通(南17〜18丁目)でもズレの調整があるのでしょうか?もちろんあります。

ではどこか?というとどちらの道路も西5号(西15条通)と西6号(西16条通)の間で調整しています。バス停でいうと新緑通は西15条13丁目から新緑通16条を経て西16条4丁目(いきなり丁目の数字が変わりますが同じ街路上です)の間で緩やかに北へ、春駒通は緑ヶ丘小学校から五中前の間で緩やかに南へそれぞれズレています。

 

 

 (バス路線が分かり難い場合は交通状況をオンにするとバス路線=ズレがどこか分かり易くなります)

 

帯広を中心とした殖民地区画の名残のバス停名は数年前まで市街地にも多く残っていたのですが今は十勝バス拓殖バス両社ともに帯広市街地にはほとんど残っていません。今でも残るのは団地名として残った十勝バスの14号団地、西11号団地、西10号団地や拓殖バスの西10号6丁目、隣町音更の緑陽台8線でしょうか?殖民地区画の交点にあるバス停として純粋に生き残ったのは帯広市街から近い所だと31系統の南2線16号やS12系統の芽室16号より西側、10、17系統の札内6号や45系統の下士幌6号より東側になります。また、帯広を中心とした殖民地区画とは異なる区画ですが2系統の川西2号や60系統の川西3号も市街地からは近いです。

 

以下に思い出せる範囲で1981年11月以降帯広を中心とした殖民地区画が由来のバス停名を北西側からあげてみます。カッコ内は現在のバス停名。

【基線(国道38号線)】国道15号(国道西25条)、国道14号(国道西24条)

【西14号】14号団地(現存)

【南1線】南1線(西帯広コミセン前)、西11号団地(現存)、西10号団地(現存)

【西10号】10号橋(廃止)、西10号6丁目(十勝バスのみ西20条6丁目・拓殖バスは現存)、西10号5丁目(栄通5丁目)、西10号4丁目(十勝バスは栄通4丁目・拓殖バスは西20条4丁目)

【南2線】南2線15号(西25条2丁目)、南2線14号(西24条2丁目)

【南4線】4線17条(西16条5丁目)元の南商業高校前でJR北海道バス時代に高校移転で改称

【南5線】南5線15条(西15条6丁目→常磐通6丁目)、南5線16条(西16条6丁目)南5線17条(西17条6丁目)、南5線18条(自由が丘2丁目)、南5線20条5丁目(森の交流館下)

【南7線】南7線(西12条31丁目)

【南8線】南8線(西5条34丁目)

【南9線】(元は空港入口で空港移転後)南9線(南町郵便局前)、南町9線(南の森西7丁目)

【南10線】南10線(南の森西4丁目)、南町10線(南の森西9丁目)

【南11線】南11線(光南病院前)

【南12線】南12線(廃止)

【東3号】宝来3号(廃止)

【東5号】宝来5号(廃止)

【東6号】札内6号(現存)下士幌6号(現存)、宝来6号(廃止)

【北6線】音更6線(木野大通14丁目)

【北7線】音更7線(木野大通16丁目)

【北8線】音更8線(木野大通18丁目)、緑陽台8線(現存)

【北9線】柳町9線(よつば乳業東口)

 

残ったところはほとんど都会っぽいバス停名に変わっちゃいましたね。循環線が南8線から北高移転に伴い延伸した時にできた稲田基線(西10条39丁目)や稲田東1線(西8条39丁目)、稲田東2線(西5条39丁目)なんかはどうして無いんだという方がいらっしゃるかもしれませんがそちらは川西2号より南が入らなかったのと同じ理由です。それを入れるなら川西0号や1号、音更1号から北なんかも入れたくなりますからキリがないということでご了承ください。

昔の時刻表から道東バスと国鉄バスを考える

私にとって無い頭を捻るような難しい記事続きでしたので昔の時刻表から思いついたような簡単な記事でも。


手元に1982年2月の弘済会発行道内時刻表があります。そこから懐かしの路線をいくつか。


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十勝バスでは大津、長節湖行き。浦幌〜留真温泉や浦幌から本別まで直通していた留真線。拓殖バスの上士幌線は健在ですが足寄急行線や東瓜幕線。東瓜幕線は通学需要のある時間帯は東中音更を経由してますが経由しない便もあります。東瓜幕線もそうですがその下の士幌や池田町内の路線は元国鉄バスの路線群。一番下にはまだ現役の国鉄バス大樹の三路線。

見ているだけでワクワクしてきますが今回の注目点はそこでもありそこではない更に下の路線図です。


弘済会の道内時刻表はバスの時刻は最新のものであっても路線図はなかなか更新されず古いまま残っていることが多かったです。ということで路線図から廃止になった路線を推測できないかという試みをしてみます。

この画像だと十勝清川から忠類間、大樹から広尾間、帯広から下士幌、昭和経由士幌間の国鉄バスや足寄陸別間の旧道東バスはもう運行していません。余談ですが豊頃浦幌間の十勝バス浦幌線で主な停留所が吉野や十勝共栄ではなく万年(入口)というのも興味深いです。


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こちらの画像は十勝バス幕別温泉線や途別線、広尾線のページですが下の路線図に道東バスが元気だった頃の様子や北見バスも陸別町まで乗り入れていた様子が分かります。

上士幌足寄間の芽室は芽登の、幕別と大津豊頃間の茂別は茂岩の誤植でしょう。士幌池田間の国鉄バスが様舞を経由しているような図になっていますが十勝バス足寄線との交点になっているなら高島が正しいはずです。


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このページに路線図はありませんが日勝峠スカイラインの記録として紹介します。十勝バスの日勝線は国鉄バスより途中のバス停が多かったです。下にはまだ静内浦河間を走る国鉄バスがいくらか残っていますね。


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帯広〜襟裳岬へ直通する便はもうありませんが様似〜襟裳岬〜広尾間を国鉄バスの急行便が走っていた記録を。冬なので運休中ですけどね。この頃は全線普通便で乗り通そうとすると庶野で乗換えが必要でした。冬なので襟裳岬まで行く便も無く灯台口までの便になってます。下は広尾が絡む国鉄バス日勝線の路線図です。あまり今と路線自体は変わりないかもしれませんしついつい夕張のほうに目が行ってしまいます。


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最後に北伏古と中仙境自衛隊方面、大樹からの国鉄バス以外は全部十勝バスな路線図です。新得や浦幌といった幹線以外にも八千代、上札内尾田廻り広尾線のような亜幹線。十勝川温泉経由池田、古舞、糠内、喜楽沢といったローカル線でもまだまだ元気のあった時代でした。

(暫定版)帯広駅前周辺のバス停のことその2 拓殖バス&国鉄バス編(現在調査中)

※注意 前の記事と同じくこの記事は同じバス停でどちらの会社のバス停パールが前か後かなど曖昧なところがあります。バス停の位置に間違いはないはずですが指摘や情報がありましたらお知らせいただけると嬉しいです。

 

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前回に引き続きこの図で拓殖バスと国鉄バスの帯広駅前バス停について。国鉄は駅前広場なので帯広駅前というバス停名に納得ですが拓殖バスの2や3も扱いとしては帯広駅前になります。では早速拓殖バス(赤丸数字)から。

 

【1】帯広駅前

はとやの東側にありました。郊外線の出発で使用。到着は駅前広場を使っていたかというと4のバス停を使っていたようですが時代によって変わっているかもしれません。ちなみに民衆駅になってからは駅舎内西端に国鉄バスと並んで拓殖バスの発券窓口がありました。バスタッチが完成して窓口ができてからも駅舎内の窓口は数年間残っていたはずですし、郊外線がバスタッチ発着に移ってから市内線の療養所線のみが【1】のバス停を使っていたはずですがあまり確証がありません。

 

【2】富士銀前

市内線や緑陽台線など近郊線の出発で使用。バスタッチ完成後は工業団地線を除いてバスタッチ5番のりば始発になります。療養所線も最初は富士銀前から出ていましたが後に移ります。

 

【3】かじのビル前

バスタッチ完成までは市内線近郊線の終点。郊外線は1980年代になるとバスタッチが完成するまでバスターミナル終点になります。

 

【4】帯広駅前

時刻表では養老乃瀧前や新生堂スポーツ前と書かれてました。療養所線が帯広駅北口の区画整理が落ち着くまで使っていたはずです。今の帯広駅西口バス停にあたります。

郊外線がかじのビル前〜当バス停〜バスターミナルと通っていたようですがこちらもしっかりとした確証はありません。

 

続いて国鉄バス(青色丸数字)。

【1】帯広駅前

東8条15丁目行き以外の全便

【2】帯広駅前

東8条15丁目(帯広営業所)行き

別に国鉄バスが嫌いで簡素な表記にしているわけではなくこう書くのが一番誤解を生まない表記と思うのでこうしました。先ほども書きましたが国鉄バスにも駅舎内に発券窓口がありました。

 

今までの記事に比べかなり消化不良なものになりましたが正しいことが分かり次第追記していきます。

(暫定版)帯広駅前周辺のバス停のこと その1十勝バス編(現在調査中)

※注意 この記事は同じバス停でどちらの会社のバス停パールが前か後かなど曖昧なところがあります。バス停の位置に間違いはないはずですが指摘や情報がありましたらお知らせいただけると嬉しいです。

 

みんな大好きイトーヨーカドー西隣のバスターミナルと違い話題になることが案外なかった帯広駅前周辺のバス停群。時代によって変遷していますが地平駅舎最後である民衆駅時代の駅前周辺でバスタッチ完成までの間のお話です。バス停名は様々ですがどれも帯広駅前として扱われました。

 

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今までの図はそれなりに縮尺に配慮してきましたが今回の図は特に駅前広場は縮尺が実際とはかなり異なると思います。駅が青色1の下側、西3条が黄色9、西2条は赤色2黄色5の間です。あくまで概略図として昔の地図などと照らし合わせてご覧になることをお勧めします。

ではさっそく十勝バス(黄色丸数字)から見ていきましょう!十勝バスの系統番号と路線名は1981年夏ダイヤ基準になります。(81.11以降の十勝バスの路線別のりばは81.11改正の記事内【4】をご覧ください。丸数字はどちらも共通です)

 

【0】十勝バス前(本社前、もしくは駅前十勝バス)

今までの記事でずっと十勝バス前と書いてきましたが81.11以前の時刻表では十勝バス本社前、以後のでは駅前十勝バスという表記です。案内放送とかでは十勝バス前と言ってたと思うのですがどれが正しかったのでしょう?そんな余談はともかく 1981年5月ダイヤでは以下の路線が使用していました。

9〜10系統音更線、13系統中鈴蘭線、16系統芽室線、22〜23系統西帯広団地線、24系統芽室南線、30系統音更・緑陽台団地線、31〜33系統中央線(市立病院行き)、43系統中島橋線、44系統流通団地線、51系統新得線、60系統鹿追線、77〜78系統東士幌循環線

 

【1】駅前1番のりば(駅前広場内)

地平時代の駅舎の様子はあちこちに画像がありますが駅前広場1番のりばも写っている画像はあまりありません。81.11改正後の様子では全体ではなくほぼ全部になりますが

根室線・帯広駅−さいきの駅舎訪問

に画像があります。この画像の屋根下にある行き先の一覧について補足すると左から「札内・あかしや団地・幕別温泉方面ゆきのりば」「幕別・途別・古舞・糠内方面ゆきのりば」「利別・池田・本別・足寄方面ゆきのりば」駅舎がメインなので途中で切れてますが「茂岩・大津・長節湖・浦幌方面ゆきのりば」になります。この更に右にもう一つ屋根付きのベンチがあって屋根下の行き先案内の看板は「市役所・西5条・西23条(営業所)方面ゆきのりば」だったはずです。(曖昧)屋根の行き先表示の所にその行き先のバスが停まるわけではなく先頭から詰めて停まっていました。81年夏ダイヤでは以下の路線が使用していました。

5系統十勝川温泉線、14系統筒井温泉線、21系統幕別線、42系統足寄線、52〜53系統池田線、55〜56系統幕別温泉線、63系統途別線、64系統糠内線、76系統喜楽沢線、特急阿寒湖線

郊外線はバスタッチ完成後に1番のりばから移動したので使用する路線がなくなってしまいますが1991年4月改正で70系統大空団地線で「駅前」バス停とバス停名を変えて再度1番のりばを使用します。

 

【2】駅前2番のりば(本社裏)

8系統畜大線、27系統帯広空港線、34系統川西中学校線、35系統大正線、36〜37系統広尾線、39〜40系統大樹線、74〜75系統八千代線、79系統大和線、80系統西似平線

 

【3】駅前3番のりば(はとや前)

15系統春駒橋線、17系統柏林台線、19系統西19条4丁目線、38系統浦幌線、50系統上士幌線、57系統大津線、58系統長節湖線、糠平

 

【4】富士銀前

昔の時刻表を見る時に注意がありまして1960年代の時刻表の富士銀前は今の大通9丁目にあたります。では今でもバス停が残っていればみずほ銀行前になったであろうこの富士銀前は当時何というバス停名だったかというと勧銀前になります。

2系統循環線2コース(南廻り、北廻り)、6系統緑ヶ丘病院線(水光園行き)、7系統大空団地線、25系統日甜住宅線、28系統畜大北門経由大空団地線、29系統刑務所線

 

【5】かじのビル前

1系統循環線1コース(南廻り、北廻り)、6系統緑ヶ丘病院線(緑ヶ丘病院行き)、31〜33系統中央線(大通27丁目行き)

 

【6】福井旅館前

81年夏ダイヤでは西1条11丁目になっており福井旅館前はもうありませんでしたが記録として載せます。

1960年代の十勝バス時刻表にかじのビル前がどういった状況だったのか経緯は不明ですが「福井旅館前発19時以降の各線はかじのビル前より発車致します」という表記があります。ところが時刻表にかじのビル前の時刻を掲載している便はあれど福井旅館前を発車する便の掲載がありません。上のかじのビル前を使用していた路線が19時までは福井旅館前から出ていたのかそれとも福井旅館前から出ていた路線が別にあったのか?

後にこのバス停は東側に移設され西1条11丁目という市内線のみ停車するバス停になります。広尾方面行きなど駅前2番のりばから出る路線はこのバス停の前を通過しても使用しませんでした。81年11月改正時に西1条11丁目はあくまでかじのビル前の次のバス停という扱いでした。

 

【7】川上病院前

こちらも福井旅館前同様81年にはもうなくなっていました。昔の時刻表には「川上病院前発19時以降の各線は十勝バス前より発車致します」という表記がありますがこちらは時刻表に川上病院前と書かれているので分かりやすいです。81年夏ダイヤでいう駅前3番のりば(はとや前)や富士銀前から出る市内線で使用していました。反対側の福井旅館前と違いこのバス停は移設されることはなく一旦は消えてしまいます。しかしその後の帯広駅前バスタッチや現在の帯広駅バスターミナルに最も近いバス停と言えるかもしれません。

 

【8】駅前

このバス停は西2条通を北から来た路線がかじのビル前の後再び西2条通りの富士銀前へと戻る際に通過していました。1981年11月から70系統大空団地行きで通過していたはずですがかじのビル前や富士銀前という一大拠点に比べ地味な存在でした。1985年5月からの75系統稲田橋線も稲田橋行きで通過していたはずですが使用していたかどうか不明です。後に駅前広場1番のりばを駅前バス停へ名称変更し70系統が富士銀前〜郵便局前〜市役所前から駅前〜西3条9丁目〜市役所前に経路変更するとここはバス停のポールだけ残されごく一部の駅前周辺で時間調整する必要がある便のみ使用するようになり後に廃止されます。

 

【9】西3条10丁目(十勝イン前)

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の9番目のバス停と同じです。ここは81年大改正後も残りました。いわゆる降車専用。

 

十勝バスだけで長くなってしまいましたので一旦ここまで。拓殖バスと国鉄バスは後半へ続きます。

停名地名不一致の謎 第2回 十勝協和

(公開後によく考えたら第1回は西似平だなと思ったのでこちらは第2回目とさせていただきます)

東京駅の本屋でそんなような鉄道&地理ネタの本の表紙を見かけて買ってないけどネタとして面白いかと思い乗っかってみようかと。一回ポッキリかシリーズになるか全く分からない思いつきを始めてみます。

 

さて、そんな第2回目はこのブログでもよく取り上げている路線の一つ、十勝バス広尾線の十勝協和バス停です。散々書いてきてますが旧広尾道路=広尾街道と現在の国道236号線の交点にある十勝協和。堀淳一さんの著書『北海道 鉄道跡を紀行する』で広尾線跡を訪ねた時に忠類坂からの展望に見とれバスの時刻を失念し慌てて走ったバス停と思われる十勝協和です。住所としては更別村字弘和になります。

 

更別村字弘和。協和じゃないですね。どうして字名とバス停名に違いがあるのでしょう?

 

かつてこの十勝協和バス停付近の土地を所有していたのは今のニッタ株式会社に当たる新田帯革製作所(文書によっては新田帯広製革所とも)でした。十勝の鉄道に詳しい筋の方だと馬車鉄道で有名でしょう。勢雄から協和までの更別村北縁地域は元々幕別村で大正村を経て更別村になり今に至ります。更別村史でも幕別町史、幕別町百年史でも幸いに字名変更に関してある程度詳しく書かれているので探しやすいのですが字弘和が更別村に編入された時には既に幕別村(当時)で字名変更が行われてましたので字弘和に関しては幕別町側から探してみます。1944年に字名変更を行うまで勢雄も協和も最初は幕別村の字イタラタラキでした。字イタラタラキが後に字奥糠内となり字勢雄と字弘和に分かれます。今の更別村と同じく字弘和です。では協和とは?

 

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の回にも書きましたが地名が残りやすい世界三大物件は駅、学校、郵便局です。駅は上更別にしかなく(そしてこの駅=鉄道の存在が幕別村から大正村への編入運動のきっかけになります)郵便局も同じく。残るは学校のみとなります。

この付近にかつてあった学校は二校。十勝協和のバス停から近い順に上協和小学校と弘成小学校です。上協和は十勝協和の由来っぽく見えますし弘成は弘和にちょっと近い感じですね。幕別町百年史によると弘成小学校は字名変更と同じく1944年に弘和小学校に名前が変わっています。では弘和とは?

 

ここまでくると勘の良い方ならお分かりでしょうが弘和という字名は弘成と協和から一字ずつ取った合成地名です。東京都の大森区蒲田区大田区になったのと同じ理屈です。幕別町百年史にはズバリ「従来ノ弘成、協和ヲ合シ一字トナス二字ノ名ヲ取リ合セタルモノナリ」とあります。この時一字を取るのに逆を取って協成とする案もあったそうですが弘和のほうが元の地域名により近いから選ばれたのではと推測します。

 

残念ながら和歌山からの移住者が多かったのかなど協和という地域名自体の由来は不明なのですが、協和という名前は神社や協和区という行政区の一つとして今でも更別村に残っています。今では少なくなってしまった十勝が付くバス停名の一つである十勝協和。バス路線とともにいつまでも残ってほしいものです。

バスターミナル場外の関連乗り場のこと

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の番外編のようなこと。コメントで白樺通にある屋根付きのバス停は何に使っていたのかという質問をいただきましたのでまとめます。

 

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上図をご覧になって分かる通りターミナル周辺の西3条南9丁目関連のバス停は全部で9箇所ありました。81.11〜84.11改正の路線を基準に一つ一つ見ていきましょう。各バス停名前の()は社名後()の副称のようなものはこちらが勝手に付けてます。

 

 

【1】(十勝)西3条9丁目(ヨーカドー玄関前)

2系統 循環線(西廻り)西3条〜玄武住宅〜国道西20条〜魚菜市場〜営業所

※注意!1981年11月から1985年4月までの間。鉄道高架完成後再度使用開始。1985年4月までについてはこちらで書いてます。

30、32系統 合同庁舎〜新町〜北町〜西10号団地〜14号団地〜営業所

31系統(復路の営業所行き) 合同庁舎〜競馬場〜南町3〜三条高〜柳橋〜営業所

※注意!1985年4月まで。5月からは往路の芽室行きが使用。

40〜51系統 西5条13〜西15条13〜大谷高〜10号橋〜国道西20条〜営業所

60〜68系統 市役所〜西5条1〜玄武住宅〜国道西20条〜営業所

 

鉄道高架が完成して西南大通が線路下を通れるようになるまで白樺通に行く便は合同庁舎・競馬場東側経由の便を除き道銀の交差点から西に向かいましたのでヨーカドー玄関前は不通過。大空団地行きがヨーカドー玄関前に停車するようになるのはバスタッチが完成して札内方面行きが駅前広場1番乗り場から移動した更に後になります。

 

【2】(十勝)西3条9丁目(ヨーカドー対面北寄り)

基本的に【1】の反対行きが使用。ただし、バスターミナルに立ち寄る49、51、60〜68系統は不通過。

2系統 循環線(西廻り)駅前2番〜大通〜川西1号〜北高〜南8線

※注意!1981年11月から1985年4月までの間使用。

30、32系統 十勝バス前〜西2条1〜玄武住宅〜西帯広〜芽室日甜〜芽室

40〜48、50系統 十勝バス前〜西2条1〜木野農協

70、71系統 十勝バス前〜西2条1〜玄武住宅〜国道西20条〜営業所(81.10までの駅前終点時代は復路のみバスターミナル入込)

72〜78系統 十勝バス前〜東4条9〜柏葉高〜西2条1〜玄武住宅〜営業所(81.10までの駅前終点時代は日甜住宅線の復路のみバスターミナル入込)

※注意!1981年11月から1985年4月までの間。1985年5月からはこちらの【2】を参照!

(往路で立ち寄らない70〜78系統がなぜ復路で立ち寄るかは上のリンクで)

 

【3】(国鉄)西3条9丁目(ヨーカドー対面南寄り)

緑ケ丘方面から駅前・東8条・中鈴蘭へ向かう上り便。国鉄バスが下りでホシ帯広店前の西2条9丁目を使い上りでこの西3条9丁目を使った理由も上のリンクと同様です。

 

【4】(十勝)西3条9丁目(ヨーカドー南側・道銀横)

白樺通から来る全便。1981.11ダイヤでいう

5、10〜14、16〜20系統 かじのビル(5系統終点)〜駅前1番〜西1条9〜大通6〜東12条

15系統 かじのビル〜駅前1番〜バスターミナル〜西1条9〜大通6〜東12条

15系統足寄行きは道銀前西3条9に寄った後駅前1番からヨーカドー玄関前を通り(バス停不使用)バスターミナルで客扱いをし再び道銀前西3条9の前を通り(バス停不使用)西1条9に向かうという経路でした。

21系統も85.5ダイヤ以降南商線と組み合わされるまでは使用。

31系統 かじのビル〜駅前3番〜西3条9(ヨーカドー玄関前)〜合同庁舎〜競馬場〜三条高〜柳橋〜営業所

31系統営業所行きは85.4までで85.5からは駅前終点です。乗り遅れても【1】から乗れる安心設定!

空港連絡バス バスターミナルが廃止になってからは航空会社の支店が経済センタービル内にあったのでこのバス停に空港行きが停まっていました。 

 

【5】(十勝)西3条9丁目(丸越前)

西7条9を通り白樺通へ行く全便が使用。基本的に【4】の反対行き。31系統営業所行きは先述の通り合同庁舎から西10条5を通るので不使用。

5、20系統 競馬場〜北町〜流通団地〜国道西20条〜営業所

10、14系統 競馬場〜白樺学園〜北町〜14号団地〜営業所

15系統 競馬場〜白樺学園〜南町2丁目〜14号団地〜営業所

11〜13、16〜19系統 競馬場〜白樺学園〜南町2丁目〜柳橋〜営業所

31系統 競馬場〜白樺学園〜南町2丁目〜芽室温泉〜芽室

 

【6】(拓殖)西3条8丁目(河野園前)

療養所線で使用。中央公園前から始まる片循環区間の終わり。後にイトーヨーカドー玄関前に移設されます。

【7】(国鉄)西2条9丁目(ホシ帯広店前)

西2条本通り長崎屋前にバス停があった中鈴蘭行き以外の緑ケ丘方面下り便全便。中仙境行きは西2条9〜バスターミナル1番〜西3条通〜市役所前という回り順。

 

【8】(十勝)郵便局前(大洋電気前)

稲田方面へ行く全便

70〜72、75〜78系統 市役所〜西5条13〜ニチイ前〜四中前

 73〜74系統 市役所〜西6条〜緑ヶ丘〜刑務所

【9】(十勝)西3条10丁目(十勝イン前)

81.11改正前までは大空線や日甜住宅線など市内線の終点帯広駅前として降車専用の扱いでした。81.11後は朝ラッシュ時の駅前行きの終点や後々新町線が新設された時にも終点バスタッチの一つ前で事実上の降車専用として使われますが西3条9丁目と統合される形で数年前に廃止。と思いきや空港連絡バスの東横イン前としてそんなに時間が経たないうちに近くに復活しました。

 

といった感じでした。多分抜けはないはずですがもしありましたら後日加筆します。

国鉄バス対十勝バス 4線5線戦争序章!

1970年代も後半になると人口の増えた帯広市内の住宅地は南2線(白樺通)以北では柏林台団地以降西10号団地、西11号団地、西帯広団地、共愛団地で既に住宅が建ち並び始め14号団地の分譲を待つのみとなっていました。そうした飽和状態で新規で住宅を建築するため柏林台南西部の南2線以南西7号以西の宅地開発が行われ始めます。ここではまず十勝バスの西進運動こと1981年11月改正直前の帯広市内の南3線(新緑通)以南のバス路線の様子を見てみましょう。(大字は路線の起終点、小字は主な経由地、線の太細は便数の差です)

 

 

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4線5線戦争1981年





 

まずこのエリアでは国鉄バスが1948年に路線バスを走らせます。国鉄バスに関しては詳しい所がたくさんありますのでそちらに委ねるとして、この時住宅街らしきものがあるのは緑ケ丘と鉄南保育所周辺くらいです。1953年2月北海道立緑ヶ丘病院が開設されると民間の路線バスも春駒通での運行を模索します。競馬場東側が新町東の住宅街ではなくまだ養鯉場があった頃です。前後して西14条南14〜15丁目が豊川分譲地としてまた西16条南4丁目が富貴町分譲地として住宅が建ち始め、1959年帯広市立第五中学校と帯広市立南商業高校が創立します。十勝バスでは15系統春駒橋線が駅前〜春駒橋を、6系統が六中前〜緑ヶ丘病院を走っています。この時6系統が水光園ではなく六中前を起終点にしたのは水光園の隣に道東バスの車庫があったからです。

1977年には帯広大谷高校が西19条南4丁目に移転し、またその西隣り西20条南4丁目では北見バスの開発した宅地分譲地の販売が始まります。上の路線図でいうと十勝バス19系統の終点西19条4丁目と国鉄バス西十九条の間のエリアです。また、大谷高移転に合わせ十勝バスは19系統西19条南4丁目線の運行を始めます。



十勝バスが営業所を統一するまで南4線こと春駒通で国鉄バスと十勝バスが競合していたのは緑ヶ丘病院から緑ケ丘小学校までの2km弱がメインでまだ穏やかでした。国鉄バスファンの間ではバス停名が緑ケ丘学校か緑ケ丘小学校かで話題になる小学校ですが、実はそもそも学校名は緑丘小学校が正しくケの字は付かないのでした。ちなみに緑ヶ丘病院や緑ヶ丘郵便局は小さな緑ヶ丘、住所としては大きな緑ケ丘の字を使ってました。国鉄バスは大きな緑ケ丘、十勝バスは小さな緑ヶ丘の字を使っていたと思います。国鉄バスと十勝バスの南4線(春駒通)での競合は帯広駅〜西十二条でも起こっていました。十勝バスの路線は便数僅かな緑ヶ丘経由大空団地線(後の刑務所線)ですのでここでは圧倒的便数の国鉄バスと競合はしていないと考え路線図には含めませんでした。

 

さて、徐々に西進し始める帯広市街に呼応するかのように国鉄バスと十勝バスも路線の西進を始めます。同じ道を西進し続ける限り起こり得る衝突!それを避けるために編み出した国鉄バスの秘策とは?次回をお楽しみに!