道東バスの痕跡を探して 第2回 池田町編

 池田町の路線バスの始まりはというと池田や利別の市街地より早く今の幕別町新川地区を1927年に通った大津市街〜帯広駅間の名畑仁太郎氏の大印自動車が最初の運行と言えそうです。なぜ幕別町新川が池田町の路線バスの始まりに関係あるのかというと幕別町新川がかつて池田町の上統内という地域だったからです。新川とは文字通り新しい川で今の千代田から茂岩まで直線状の統内新水路を造ったことに由来します。統内の新水路工事には蒸気機関車も使用されたりしていますがここはバスの話。十勝バスの浦幌線の末期には新川始発浦幌行きが運行されていました。そんな新川(上統内)の対岸の利別や池田市街地の路線バスの始まりはというと池北三町の回

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の通り翌1928年に松本峯太郎氏(後に佐々木時光氏から中央乗合自動車)による池田〜本別間の運行で始まります。池北三町の回であえて細かく触れませんでしたが池田〜本別間の運行と聞くと世代によってはかなり違和感を感じる表現かもしれません。オールドファンとしてどこに違和感を感じてほしいかと言いますと池田〜本別ではなく利別〜本別間ではないのかというところです。

現行の十勝バスの利別〜池田〜様舞〜近牛〜高島の池北線沿いの経路は2002年から。それまでは利別〜豊田〜青山〜信取〜高島の国道を主に走る経路でした。ではこの1928年の池田〜本別間の松本・佐々木氏の路線バスはどこを通ったのかというと池田〜利別〜青山〜高島〜勇足〜本別という池田から利別川を渡り利別以北は高島の対岸まで一度現国道を通る2002年までのバス路線と同じ経路でした。

 

池田町内関係の路線バス網図(同時に全て存在したわけではありません)

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(1980年頃の道路状況を元に作成。黄色は十勝バス系列が始めた路線、赤色は道東バス系列が始めた路線、青色は国鉄バスが始めた路線、緑色破線はブルーグラス号)

 

次に定期運行が始まったのは帯広〜幕別〜池田間の竹腰広蔵氏(後に野村文吉氏)の十勝自動車の路線なのですがこの当時の十勝自動車は貨物事業も行っていて幕別経由の帯広〜池田間は貨物の路線でした。よって二番手の路線バスと言えるのは中央乗合の本別〜池田〜帯広か雨宮房一氏の雨宮バスの池田〜下士幌〜帯広の二路線となりそうです。

 

戦後になると国鉄バスの台頭が始まります。池北三町の回で本別・勇足〜士幌間の国鉄バスについて書けなかったので今回の図に本別分も含めてますが1951年6月11日に池田〜昭栄〜豊頃〜茂岩〜駒畠の運行が認可され続いて1953年には池田〜様舞〜高島〜常盤〜下居辺〜士幌市街の運行も開始されます。4年後には駒畠から大樹までの国鉄バスも運行を始めるので大樹から士幌まで国鉄バスの路線網が繋がるという今では考えられない時代がやってきます。1955年11月には国鉄バスの東台線も池田から東台郵便局まで運行を始め1957年には東台から富岡第三会館まで路線を延長します。1955年には道東バスが利別〜川合〜育素多〜茂岩という国鉄バスの対岸を走る路線を始めますがこれは長続きしなかったようです。

 

十勝のどこの市町村でもそうですが1950年代に国鉄・民営ともに路線バス網が急拡大するものの早いところでは1960年代前半から1970年あたりまでにはかなりの規模の小路線が廃止されています。これをモータリゼーションの進展と離農や過疎化の影響と言って終わらせることは簡単なのですが1960年代の十勝地方の農村部に何があって離農しなければならない人が続出したのかというと冷害が続いたことの影響が大きかったという記述が各市町村史にほぼ記載されています。特に国鉄バスのこの時期の地方路線の休止廃止には冷害による離農と過疎化の影響はかなり大きかったと考えられます。

 池田町内の国鉄バスの休止廃止はまず1962年10月高島〜様舞〜池田の国鉄池北線並走区間の休止から始まります。国鉄バスの士幌へ行く路線は高島〜常盤(士幌町界)まで、勇足へ行く路線は池田〜富岡(第三会館)まで、豊頃へ行く路線は昭栄(豊頃町界)までへとそれぞれ分割、短縮されます。過疎化の影響は大きく運行区間を短縮した高島〜常磐間の国鉄バスは結局6年後の1968年に廃止されます。

池田町は大きな町にも関わらず民営の路線バス事業者の車庫が存在したという公的な記録がなく、池田中心部から各集落への短距離の支線の運行は短期間の運行に終わった利別〜豊頃の路線以外は国鉄の路線以外になかったことから高島〜常盤間の代替バスの運行は結局池田町自身で行うことを決めます。今では自治体が路線バスの代替バス白ナンバーの車両で運行することは珍しくないですが当時は大変だったようで国鉄バスの廃止後すぐの運行はできず1969年12月1日に認可され翌1970年2月24日に池田町営バスの高島〜常盤間の運行が始まります。当時の銀色の車体に赤帯のカラーリングと白ではなく緑ナンバーでの運行となった池田町営バスはまるで東急バス系列の路線バスが走っているかのような印象でした。

池田町営バスの運行が始まったおかげで居辺小学校の学校給食を町営バスで搬送することができたなど旅客輸送以外にも恩恵はあったようです。この高島〜常盤間の公共交通は住民による運行組合方式の殖民軌道オルベ線から始まり国鉄バスを経て再び自主的な町営バスに戻ったと言えそうです。

 

 最後に利別のバス停について触れておきます。今の十勝バスの利別バス停は道道帯広浦幌線沿いにありますが以前は国道沿いの農協前にありました。今の国道と道道の交差点は単純な十字路になっていますが以前は国道が緩やかなカーブになっていていて利別のバス停はカーブの北側にありました。以前の交差点の線形は航空写真を見れば一目瞭然です。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=915335

以前の国道沿いの利別バス停は道東バス十勝バス合併後西側が足寄・阿寒湖・池田行き、東側が幕別十勝川温泉・帯広行きで使用していました。 今の利別と三番通りのバス停間の距離が短いのはあとから利別バス停が移設されたからということです。

 

結局池田町には他の池北三町と違い文書に残る道東バスの痕跡というものは見つかりませんでした。十勝地方でも大きい町ですし町史の路線バスに関する記述はかなり豊富なのですが池田町で道東バスの痕跡を探すのは実際に現地に行かないと難しそうです。

十勝のバスと文学

鉄道ならいざ知らず十勝地方の路線バスが出てくる書籍はどれくらいあるのでしょう?世の全ての書籍を知っているわけではないですが知っているものから三冊ご紹介します。

 

1.『北海道 鉄道跡を紀行する』

 

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の回でもチラッと触れた堀淳一さんの1991年の本です。廃線跡がメインなのでバスの描写は極小ですがどこからどこまで乗ったかくらいは出てきます。十勝地方からは大樹から忠類、更別にかけての広尾線跡と糠平以北の士幌線跡、新得から南新得と清水鹿追間の北海道拓殖鉄道と河西鉄道の立体交差跡の三つの路線が取り上げられていますが、拓鉄跡のエピソードにはバス移動についてのエピソードが出てきません。なので広尾線跡と士幌線跡について見てみましょう。

広尾線跡の回ではまず「帯広からバスに乗った。上札内経由だったので大樹27号で降りる。」とあります。訪問したのは1990年6月と書かれていますがこの当時上札内経由は日曜祭日運休便はなく全日4往復の運行です。同じ日に全行程を回っているようなので午後の二便(帯広15時発と17時半発)を利用したとは考えにくくよって堀さんが実際に乗車したのは帯広7時発か10時発だと考えられます。大樹27号着が8時18分か11時18分頃。歴舟川に架かる橋を眺め大樹市街まで歩き今度は忠類へ向かいます。坂はあっても下り坂なので10時か13時頃までには西本通りに着くでしょう。西本通りからはちょうど(快速)10時7分、(普通)13時22分の便があり忠類には10時19分、13時33分に着きます。この当時快速は既に快速運転を取り止めていますので快速表記は大樹市街の経由地の違いと広尾市街の広尾(旧駅)止まりか終点の営業所まで行くかの違いを示すのみになっています。時刻表の所要時間は普通のほうが1分早いですが余裕時分の取り方の違いで快速と普通で実際の所要時分に違いはないと思います。

大樹駅跡に興味を示さなかった堀さんは忠類駅跡には大変ご満悦で足取りも軽やかに、かどうかは分かりませんが徒歩で忠類坂に挑みます。最後かなり急いでバス停まで向かっていますがおそらく2時間あれば踏破可能、先の時間から2時間後に十勝協和に来るバスの時刻は12時20分、15時40分です。どちらの時間も狙っている便を逃すと1時間20分か2時間次の便まで待たなくてはいけませんから堀さんの慌てぶりもそう考えると納得できます。朝食は帯広出発前に食べたでしょうが昼食はどうされたのか記述がなく不明です。一番日の長い季節とはいえ遅くとも15時40分のバスに乗って帯広方面に戻られたのではと推測します。

もう一方の士幌線跡も同じく1990年6月の訪問と記されていますがバスに関しては「糠平の郵便局の前でバスを降りた。」という記述のみです。当時の午前中の帯広発糠平行きは7時10分(普通)7時55分(快速)11時20分(普通)の三便です。士幌線代替の快速便は広尾線のと違い音更市街地に入り込む(大通経由)か入り込まないか(新通経由)の違いでした。実際に廃線跡を歩こうとするなら朝7時台のどちらかに乗車されたのでしょうし、当時から郵便局の真ん前にバス停はないので実際にバスを降りたのは糠平営業所のバス停でしょう。

 

2.『ローカルバスの終点へ』

 

宮脇俊三さんが月刊誌『旅』に連載していたものをまとめた書籍です。この連載で宮脇さんは道内から三カ所選んで訪問しています。神恵内村川白(北海道中央バス)、北二号(別海町有バス)とともに十勝地方からは大津(十勝バス)が選ばれました。川白は道路の行き止まりではなくなったものの変わらず中央バスが、北二号は町有バスから別海町生活バス(地域生活バス)へと変わりつつも路線が今も残っていますが大津への十勝バスは廃止され今は豊頃町有バスが走っています。走っていますと言うものの他の二路線と違い、豊頃から大津へは夕方の二便、大津から豊頃へは朝二便と完全に住民の足と割り切ったダイヤになっており旅行者にとっては敷居がかなり高くなっています。

話を連載当時に戻して1988年6月8日、宮脇さんは帯広空港に降り立ちます。当時の十勝バスの地方路線の状況は浦幌〜留真〜本別の直通運行や利別〜池田の区間便の運行がそろそろ終わりの頃で十勝地方の支線バス最後の輝きの瞬間を宮脇さんは見たかもしれません。大津へは当時下り三便上り四便の運行で、途中の茂岩で一旦降りる行程を組んでいたようですが空港連絡バスは9時59分着で10時発の浦幌行きには残念ながら間に合いませんでした。ここの辺りの描写がさすが宮脇さんだなというくらいに面白いのでここでは紹介せず、できれば実際に読んでいただきたいと思います。ちなみに文中、茂岩行きは8番という表記がありますが正確には8番は茂岩からの到着便の乗り場で出発便は1番から出ていました。

10時発の茂岩を経由する浦幌行きには間に合いませんでしたが宮脇さんは幸運です。当時下り一便のみで3年後には廃止される11時発の茂岩行きに乗車されます。十勝バスのファンは大好きな黄色と青のブルーリボン塗装ですが宮脇さんには「美しいとは言いかねる外装」と酷評されます。酷評されてますが宮脇さんの不思議なところはネガティブなことを表現してもどこか愛情があるところです。ネガティブなことをネガティブなまま伝えることは簡単ですがネガティブなことをポジティブに表現できるのは本当に難しくさすがは宮脇さんといったところです。

11時発の茂岩行きに乗り茂岩で降りるのですが降車したバス停についての記述はありません。「11時55分、豊頃町の中心、茂岩に着いた。」という記述のみです。この後豊頃町役場へ行くので役場から近い茂岩待合で降りたと思うのですが茂岩待合の時刻にしては定刻より4分ほど早いです。もしかしたら浦幌方面と大津方面の分岐点である茂岩神社前で降りたかもしれませんし茂岩行き終点の茂岩営業所で降りたかもしれません。降りたバス停は特定できませんが宮脇さんは茂岩の市街に降りたち豊頃町役場に向かいます。そしてちょうど御飯時ということもあり役場近くのラーメン屋に行くのですがそこが「東京でこんなラーメンを供したなら店の前に列ができるだろう。」と書かれるくらいの店です。今もあるなら食べに行きたいものです。

茂岩から大津を目指す宮脇さんは13時40分茂岩営業所発の大津行き二便目に乗り込みます。バス停名は相変わらず茂岩のみですが「定刻13時40分、大津行きの十勝バスがやってきた。」という記述から大津に向かうバスを待っていたのは茂岩営業所のバス停だと推測します。なぜかというと茂岩神社前は13時38分、茂岩待合は同39分ということもあるのですが「つぎの『旭団地』という北欧型の新住宅」という記述もあるので茂岩市街で降りたバス停よりは確実に乗ったバス停は茂岩営業所のバス停と言えます。

宮脇さんのこの著書は本当に全編どの話も面白く十勝のバスが好きな方には是非とも大津の項だけでも良いので一度読んでいただきたいです。

 

3.『とかち戦後・昭和の記録写真集』

 

最後は帯広百年記念館が出したモノクロオンリーの写真集です。上の2冊はネット通販でお金さえ出せばなんとか購入できると思いますがこの写真集は百年記念館のHPを見ても売り切れたのかまだ売っているのかよく分かりません。帯広市図書館には置いてあると思います。大学図書館だと四館で所蔵しているのですが帯広畜産大学の図書館以外は文面から学外者の利用が厳しそうなところが多いように感じます。

ともあれ今回のテーマは文学です。写真集なのに文学というのもおかしな話でありますがなぜこの写真集を取り上げたのかというと29ページからの交通新時代という章の中にバスの項がありそこに添えられている文章がとても美しかったからです。以下に35ページの全文を紹介させていただきます。

 

乗合バス

 

「黄色いバスが来たよ」と、弟の声で4年生の姉について弟妹3人がバスに乗り込んだ。上美生から芽室の市街の床屋さんへ行くため、指折り数えて楽しみに待っていた日だった。

後ろの椅子に並んで座った。近所のおばさんたちが挨拶をしながら乗ってきた。女の車掌さんが、鞄を腰に下げて切符を売りに来る。鞄を覗くとお金がたくさん入っていた。切符を姉が大事にリュックにしまった。

運転手さんがエンジンをかけると油の臭いがした。車掌さんが「発車オーライ」と言うと、クラクションが鳴ってバスが動く。すれ違うトラックも馬車も小さく見える。道が悪くなるとバスも人も揺れて跳ねた。

帰りのバスには、荷物を背負ったおじさんたちが乗ってきて、街の話を大きな声で話しはじめる。エンジンの音を聞きながら眠くなってきた。車掌さんの声も遠くなった。

私が小学校の2年生だった。まだ終戦前の想い出の中で黄色いバスは揺れながら走っているのだが、そんな乗合バスの風景をいまも見ることができるのだろうか。

(文:音更 嶋田美智子さん)

 

この詩のような文章の中に今では見られない十勝バスが二つありまして一つは車掌さんでありもう一つは芽室から上美生への支線です。前回は北東部の町村の支線の話をしましたが芽室町の支線の話もそのうちできたらと予定しています。そして以上三作品に出てくる目的地(大樹、糠平、茂岩、芽室)にそれぞれ十勝バスの営業所があったのですが今残っているのは糠平営業所ことぬかびら源泉郷案内所のみとなりました。

道東バスの痕跡を探して 第1回 池北三町編

十勝管内の市町村史は鉄道に関する記述はかなりのボリュームがある一方、路線バスに関してはかなり濃淡が分かれます。十勝バスと道東バスが競合していたところではなく道東バス単独の路線があった町なら道東バスに関する記述があるのではないだろうか、という淡い期待を抱いて十勝北東部(池北三町)の町史にどんな記述があるか探してみましょう。

 

 

【1】陸別町

最初は陸別町です。陸別町史は鉄道の町なだけあって路線バスについてはアッサリとした1ページほどの記載です。全く触れられてないよりは遥かに良いのですが痕跡を辿るのには苦労します。これが足寄や本別であれば道東バスから十勝バスに会社が移っただけで帯広への路線は今に至るまで残りましたので苦労はしませんが陸別は一度バス路線が完全になくなってしまいましたのでかなり厳しいです。十勝バス70年史に路線の免許の情報はあっても起点終点しか分からず地図もないのでどこを通っていたかまでは分かりません。とりあえずはその陸別町史の1ページから痕跡を辿ってみましょう。

1930年旅館経営者井上六郎氏の立案で陸別から(津別町)本岐間で観光用の自動車を走らせようという動きがありこの時導入したフォードT型は実際は阿寒湖畔で営業を開始します。なぜ遠い阿寒湖畔でと思うでしょうが井上氏は阿寒湖畔でも旅館していてその一環で阿寒湖畔〜本岐〜陸別という観光ルートを夢見ていたのかもしれません。この井上氏は陸別町内でも1931年から陸別駅〜上斗満で定期の自動車運行を始めますが「道路も悪く、利用者も少ないので1年半ぐらいで止めた」と陸別町史に書かれています。これが陸別町における路線バスの始まりと言えるでしょう。

 

十勝バス70年史には陸別町内に三つの路線の免許があった旨が書かれています。足寄陸別間の陸別線。陸別鹿山間の上陸別線。最後の一つがトマム循環線とあります。

陸別線は国道242号線を足寄から陸別まで、上陸別線は道道51号津別陸別線沿いに陸別から鹿山(上陸別)まで走ったのかなと容易に想像することができます。問題はトマム循環線です。なぜなら陸別町にはトマムが二つあるからです。一方は斗満、もう一方は苫務で読みはどちらも「とまむ」です。なぜ同じ読みの隣り合ってる地域で漢字が違うのでしょう?

これは隣町の足寄町にヒントがあります。旧足寄駅から国道241号で阿寒湖のほうに向かうとすぐに両国橋という橋を渡ります。なぜ両国なのかというとそこがかつての釧路国(足寄村)と十勝国(西足寄町)の国境だったからです。

同じトマムという読みながら当てる字が斗満と苫務で違ったのは国が違ったということです。斗満は十勝(足寄側)苫務は釧路(陸別側)だったのです。斗満はのちに陸別町編入されて同じ町内に斗満と苫務が存在することになります。

 

また、昔の時刻表から道東バスと国鉄バスを考えるの回に載せた路線図を見ると陸別から川上や小利別を経て置戸に至る路線や、道東バスの時刻表には上勲袮別へ至る路線があるように見えるのですが陸別町史には記載がありません。

鉄道並行路線にはなりますが川上とか日宗にまだ人が住んでいた頃なのでバス路線があってもおかしくはありません。置戸町の町史や創業記念北見バス20年とかに何か記載があれば良いのですが…(まだ確認していません)

 

道東バスの陸別車庫は東1条にあったそうです。町史に載っている昔の市街地図を見ると今の進藤モータースの辺りになります。また、陸別町の名誉のために付け加えるなら陸別町は鉄道があるからといって路線バスを無下に扱ったわけではなく道東バスや北見バスに対し然るべき赤字補助金を出していました。

最後に陸別町での北見バスは1957年に津別〜陸別間の運行が始まりますが10年後の1967年7月5日に陸別〜(津別町)二又間が廃止されふるさと銀河線代替バスの運行まで陸別町から北見バスは一時撤退となります。津別から二又間は津別町営バスが代替となりましたが二又から鹿山の津別陸別町境間に代替手段は確保されませんでした。

 

【2】足寄町

続いて足寄町です。先にチラッと触れましたが今の足寄町は十勝側の西足寄町と釧路側の足寄村が合併してできた町になります。一時は日本一広い市町村だった足寄町。町内で完結する支線的なバス路線も十勝地方では多いほうになります。

 

幹線は足寄から道東バスの本別、陸別線。1929年9月19日の十勝毎日新聞に小泉和雄氏の運行する本別駅前〜仙美里〜足寄太〜愛冠小学校の路線がこのほど自動車営業開始と報道されています。拓殖バスの路線の前身になる足寄駅前〜芽登〜上士幌市街間はこれより先の1927年に阿部某氏が6人乗りシボレーで運行を始めるのでこれが足寄における最初の乗合自動車と言えそうで拓殖バスの帯広直通足寄急行線は1959年10月20日から運行されます。

拓殖バスの足寄急行線は何が急行なのかというと、上士幌市街を出ると帯広市街まで無停車だったので急行線を名乗っていたそうです。

 

足寄からの支線は西へ拓殖バスの足寄〜芽登〜喜登牛〜奥芽登が1957年10月30日から運行、東へ道東バスの平和、稲牛、上螺湾(1959年10月10日から)、茂足寄(1952年6月5日から)の各線。稲牛線は十勝バス70年史にのみ、上螺湾線は足寄町史にのみ掲載されてます。

稲牛線は螺湾・茂足寄系統と同じく国道を中足寄まで走る系統と、足寄市街地からすぐ国道を逸れ国道を逸れて足寄川を渡り平和地区を経由する系統で、どちらも上稲牛まで走っていました。

上螺湾線は螺湾まで国道を走り、螺湾から上螺湾へ分岐していました。

道東バスの幹線である本別足寄間は本別町史によると足寄営業所の経営線と書かれています。

 

また、足寄といえば阿寒国立公園への観光客輸送の玄関口ですが国立公園指定の2年後の1936年の統計では足寄から阿寒湖畔へ156人、阿寒湖畔から足寄へ110人の貸切輸送があったとのことです。茂足寄線があったからこそのちに道東バスが阿寒湖に進出できたと言える一方で阿寒湖への輸送は足寄駅からの路線でじゅうぶんと言わんばかりの態度で帯広発路線への対応が鈍く十勝バスの阿寒湖進出の報にひどく驚いたとも言えるでしょうか?

帯広阿寒湖直通線は道東バスが1954年6月1日から、帯広乗合(今の十勝バス)は1月遅れて1954年7月1日から運行を始めます。道東バスは拠点のある地の利を生かし1959年の6月から阿寒湖畔〜雌阿寒登山口〜野中温泉〜オンネトーや雌阿寒登山口〜オンネトー区間輸送も始めます。道東バスは各営業所ごとに隣どうしの各町村間や中心部から集落へといった北海道にしては比較的短距離の輸送を好んでいた社風だったのも十勝の他社とは大きく違うところかもしれません。そんな道東バスの大きな拠点だった足寄町の支線は十勝地方では長く残ったほうだと言えるでしょう。

 

【3】本別町

最後に本別町です。幹線としては1928年に池田本別間、1929年に本別足寄間で乗合自動車の運行が始まります。本別からの支線は四路線で本別町中心部から美里別川の両岸を西へ向かう二路線(上美里別への路線は1951年2月認可)と本別大坂(浦幌坂)を登り浦幌町に入り坂の上で浦幌川の上流である川上を目指す路線と中流の留真を目指す路線とに分かれました。

本別から留真への路線は最初本別上浦幌線として1949年11月に認可、活平までは1951年12月28日認可で1952年5月13日に運行が開始されます。観音坂から先の留真までは1955年4月14日認可で7月29日運行開始です。

また留真から南は十勝バス浦幌営業所のエリアになり留真は乗り継ぎの拠点になったようで留真駅逓〜浦幌駅前間は1929年6月大津の横野勇氏によって運行を始めます。留真線はのちに道東バスと十勝バスが合併してからは本別留真間と留真浦幌間、本別浦幌間直通の三系統運行されるという地方支線にしてはなかなかの盛況ぶりでした。

 

本別上美里別間は1983年3月までに、留真浦幌間は1987年までに順次廃止されました。しかし本別留真間は十勝バス最後の支線として2011年まで運行されました。

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(ブレてますが観音坂に挑む194号車)

 

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(在りし日の終点留真バス停)

 

本別にも道東バスの営業所があったと本別町史に書かれていますが場所の特定には至りませんでした。駅前に案内所はあったようですが車庫も併設されていたのか別の場所に車庫があったのかなど詳しくは不明です。

足寄から芽登間の拓殖バスが一部本別町の町域にかかっていました。かつて新生(あらなり)小学校バス停があった辺りです。新生小学校は本別町立ながら隣接する足寄町中矢地区(戦後の帰農隊の入植地で中山少佐の中と矢本大尉の矢を取った地名)の児童の委託通学を受け入れました。

また、本別からは美蘭別、佐倉を経由して士幌まで行く国鉄バスも出ていました。以下、本別士幌間の国鉄バスを除いた陸別・足寄・本別の大まかなバス路線図です。

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赤実線は道東バス、桃破線は拓殖バス、黄実線は十勝バス、緑実線は北見バス、青実線は阿寒バスと北見バス

その他のバスとしては陸別町足寄町国鉄バスの招致に熱心だったという記載が両町史にあります。陸別町では北見〜津別〜陸別〜置戸〜北見という大循環線を招致したかったようで、足寄村(当時)では国鉄の他道東バスの足寄〜茂足寄間の運行が始まる前に村営バスの自主運行を行おうともしていました。

停名地名不一致の謎 第3回 十勝農学校と西5条住宅前の関係

帯広市街南部の西5条通沿いに十勝バスの1系統や60系統で通る西5条28丁目というバス停があります。近くの四中前や西5条30丁目、西5条南橋はずっとバス停名が変わっていませんが西5条28丁目だけは数年前まで西5条住宅前というバス停名が長く使われていました。西5条通沿いの十勝バスのバス停で丁目ではないバス停名は過去に北から順に市民会館前、市役所前、記念碑前、大谷校前(今の感覚だと大谷高前だと思うのですが当時の時刻表では校の字でした)、明星校前、四星堂前、四中前、西5条住宅前、西5条南橋、南8線です。南8線だけ異色ですがこれは前々回

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の最後のほうをご参照ください。他は学校や施設、橋の名前で丁目でなくても分かりやすいです。四星堂前は今の西5条24丁目でバス停の前に四星堂という名前のお店があったことが由来です。

それにしても西5条住宅前。西5条通沿いにあるので西5条と付くのは理解できますが住宅前。何の住宅があったというでしょう?当時のことを運転手さんに聞くと「昔はあの辺にしか住宅がなかったからだ」と言うのですが、たとえそうでも大通なんかはずっと丁目のバス停が市街地外縁の南31丁目まで続いたわけで隣の西5条30丁目も丁目のバス停ですしここだけ住宅前になったことの理由としてはちょっと弱い気がします。西5条28丁目ではなく西5条住宅前にしなければならない理由があったのでしょうか?

 

困った時の地名頼みといきたいところですが似平十勝協和の時と違い市街地の住宅前ではヒントは少なく頼りになりそうにもないですが頑張ってみましょう!これを言うのは3回目になりますが地名が残りやすい世界三大物件は駅、学校、郵便局。近くの郵便局は前回出てきた西七条簡易郵便局なので今回はあてになりません。残るは駅と学校。

近くの駅は帯広駅、なんていうのは21世紀の話。ここは昔の話のブログです。前回チラッと触れましたがここの近くにかつて十勝鉄道という軽便鉄道が走っていました。今でも入手しやすいJTBのCanBooks鉄道廃線跡を歩くIIや日本鉄道旅行歴史地図帳、昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)などをもとに考えてみましょう。

 

   

 

 

消えた轍も参考にしたかったのですが実家にあるのか手元になかったので今回は参考にできず。結構前に新装されてたことも全く知りませんでした。

話を戻して十勝鉄道。帯広大通駅から出発した十勝鉄道は新帯広〜女学校前を経て四中前〜工場前へと至ります。と言いたいのですが書物によって女学校前や四中前の駅があったりなかったり女学校前がなくて明星校前があったり学校前があったり。せっかくなので出典毎に帯広大通・帯広の次の駅である新帯広から工場前を経て川西までがどうなってるかまとめてみるところから始めてみます。

 

(1)鉄道ピクトリアル1958年8月号 知られざる私鉄(35ページの路線図)

新帯広〜学校前〜工場前〜農学校前〜稲田〜川西

(ただし36ページに路線図にはない四中前に関し「4線式で駅員無配置の四中前を経て工場前へ」という乗車記あり)

(2)鉄道廃線跡を歩くⅡ(190ページの停車場一覧)

新帯広〜女学校前〜工場前〜農学校前〜十勝稲田〜川西

十勝稲田は1932年8月11日、女学校前と農学校前は1935年12月1日開業

(3)日本鉄道旅行歴史地図帳(26ページの路線図)

新帯広〜明星校前〜四中前〜工場前〜(信号所)〜農学校前〜十勝稲田〜川西

 (4)昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)(26ページの路線図)

帯広大通〜中学校前〜工場前

(新帯広は表記なし。ただし21〜22ページでは中学校前ではなく「次の四中前というあたりは落ち着いた感じの田園地帯である」という乗車記あり)

 

新帯広駅と工場前駅との間にありそうな駅を全て書き出すと学校前駅、女学校前駅、明星校前駅、中学校前駅、四中前駅ですがこれらが全てあったら大変です。間違いないのは新帯広駅と工場前駅〜川西駅の間で工場前より北側の市街地の駅は見事にどれも揃いません。困ります。一つ一つ丁寧に見ていくしかありません。

新帯広駅は西4条にあったそうで1924年2月開業(帯広大通方面は1929年2月)今のバス停でいうと第一病院前の付近、女学校前駅は西6条に1935年12月開業、西5条通の西側で西南大通の南側の今でも機関車と客車が静態保存されている付近でしょう。

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女学校前駅は今のバス停でいうとイオン帯広店前、時代を遡り冒頭の西5条のバス停一覧でいうところの大谷校前になり後に(時期不明)明星校前駅へと改称します。帯広大谷女学校は1923年開校。今の帯広大谷高校は1977年に帯広市内の西19条へ移転します。一方の明星小学校は1935年4月開校。帯広市図書館HPで郷土資料の欄から閲覧できる1959年の帯広市都市計画図によると帯広大通駅と工場前駅の間の西6条南23丁目付近に唯一駅の記号がある場所が次の四中前駅でしょうか?バス停に同名の四中前がありますが西6条南23丁目の位置が正しいのなら最寄りバス停は四星堂前、今の西5条24丁目になります。四中前と中学校前は同じだろうと思えますが鉄道ピクトリアル1958年8月号や昭和29年夏北海道私鉄巡り(下)の学校前駅がどこを指すのか気になります。学校前駅が四中前駅なのでしょうか?それとも女学校前駅か明星校前駅が学校前駅なのでしょうか?

帯広市立第四中学校は戦後の1951年開校。当然ですが1923年の帯広市街全図(これも帯広市図書館HPから閲覧できます)には第四中学校や明星小学校の記載はありません。しかしながらこの図には開校したての大谷女学校の他にもう一校、学校の記載があります。それは今の北海道帯広農業高等学校にあたる十勝農学校です。

 

当時の十勝農学校周辺の地図は

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の回にも載せてます。十勝農学校(正式には十勝農業学校ですがここでは農学校と書かせていただきます)は1923年12月13日帯広市西4条南23丁目に校舎竣工。ちょうど今の明星小学校と同じ場所で十勝鉄道の静態保存と同様に帯広市の史跡にもなっています。

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1935年7月29日に今帯広農業高校のある当時の川西村へ移転。十勝鉄道の川西村移転後の(新)農学校前駅は書類上で1935年12月1日開業と移転と4ヶ月ほどずれています。この年の4月に明星小学校が開校してるのでもしかしたら3ヶ月ほど小学校と農学校の同居期間があったのかもしれません。十勝鉄道の開業が1924年。農学校の敷地は南23丁目から南26丁目までと広く今の帯広第四中の敷地まで入るので(初代)農学校前駅が後の四中前駅となった可能性があるかもしれません。学校前はどこと特定できませんが学校最寄り駅の多いなか、分かりやすく区別するために明星校前を小学校前、四中前を中学校前などと呼んでいた可能性があるかもしれません。

 

さて十勝鉄道も謎が多いですが本題は西5条住宅前です。最初は農学校が川西村に移転した時、移転前の農学校職員住宅と移転後の農学校職員住宅を区別するために移転前を西5条住宅前、移転後の川西村稲田を農高住宅前としたのだろうかと考えていました。しかし西5条住宅前は南26丁目より更に南の南28丁目です。農学校の敷地ではありませんから南28丁目付近が農学校の職員住宅であった可能性は低そうです。

では住宅とは何か?帯広市図書館で見られる昔の地図の中に発行年不詳の帯広市及近郊詳図と帯広市全図があります。その二つともに西5条から十勝鉄道の線路までの間の南26から28丁目に学園住宅地という表記があります。前回を読んでいただいた方ならご存知でしょうがこの辺りの宅地開発は十勝鉄道の東側は1931年より前に、西側は1931年より後1933年までに計画されていました。計画であって実行は戦後になりますが西5条の農学校跡地南側付近に住宅分譲地を作る計画がありそこを農学校や四中にちなんで学園住宅地と名付けたのは間違いなさそうです。一つの可能性として西5条学園住宅地前、これを縮めて西5条住宅前というバス停にした説をあげます。

 

次にもう一つの可能性を。今では立派な幹線道路の西5条通ですが昔の地図を見て違和感を感じなかったでしょうか?発行年のはっきりしている地図はどれも四中より南側に西5条通が伸びていません。これは航空写真を見ても同じで地図のミスではなく本当に西5条通が南27丁目以南に通ってなかったと言えるでしょう。昔の地図や航空写真から判断すると西5条通が四中より南の南27丁目から南34丁目の南8線まで区間で西5条南橋で売買川を渡って全通するのは1954年以降1959年までの間と言えそうです。

ではそれ以前はどうやって売買川を渡っていたのかというと3つの道路がありました。広尾街道大通の南橋、西2条通の南線橋、最後の一つは十勝鉄道沿いの細い市道に架かる鉄平橋です。稲田のイトーヨーカドー帯広店の北側にあるみどり食堂の東側にある細い道から入った先にある橋が鉄平橋でその先のかつての谷乃湯(今の西6条27丁目バス停)の前で四中の南側に出る通り。これが第3のルートです。

 

 

大通の南橋や西2条の南線橋と違い西5条にも南橋がある現代では用がないとわざわざ通る人もいないでしょうがかつては鉄平橋の通りが下帯広と(川西)下稲田を結ぶ第3のルートだったのです。さてその鉄平橋のすぐ北側には西5条住宅地がどうのという話が出る前から住宅が集まって建つ一角がありました。西5条で売買川を渡れない以上、大通以外で売買川を渡り稲田の日甜工場や住宅を目指そうとすると鉄平橋を通るバス路線がもしかしたらあったかもしれません。鉄平橋の通りを南7線道路までくるバス路線はありましたし西2条の南線橋は道東バスのニッテン線が通りました。

そんな時代にこの鉄平橋の通りの学園住宅地西側にバス停を置くとしたら学園住宅地前か学園住宅前というバス停になるでしょう。のちに幅員の広い西5条通に南橋が完成しバス路線も西5条を経由する便ができると西5条の学園住宅地のバス停はどうなるでしょうか?おそらく西5条学園住宅地前か西5条学園住宅前、ちょっと長いのでもしかしたら学園の文字は省いてしまうかもしれません。

 

どちらにしても学園住宅地が由来だと考えますが市内南部において西5条が昔から国道の次の幹線道路だったわけではなく、前回の十勝バスの東官舎線もそうした理由で四中前から南8線〜稲田橋〜日甜住宅を真っ直ぐ目指さずに法広寺〜動物園〜(墓地南側)〜東官舎〜稲田〜日甜住宅という回り道の経路を選択したわけです。

帯広のズレを楽しむ会 第2回


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の続きです。前回は東部と西部にあるズレでしたので今回は南部にあるズレをご紹介します。

帯広駅バスターミナルから十勝バスの70系統で市内南部の大空団地へと向かう路線バスに乗ると四中前から四中グラウンドと西七条簡易郵便局の間の26丁目道路を西へ進みます。西10条27丁目のバス停を過ぎると法広寺(ほうこうじ)の前までちょっと北側に遠回りしてから公園東通を南へ進みます。(下地図参照)

なお、正式には法廣寺ですがバス停としては法広寺(現在は動物園前)だったので以下このブログでは法広寺と書かせていただきます。

 

 

 

真っ直ぐ26丁目道路を作れば良かったのにと思うところですがなぜ北側の道路を通るのでしょう?実はこのちょっと北側の道路は殖民地区画の南6線道路です。1931年の帯広の市街地地図を見ると今の四中がある十勝鉄道の線路東側では住宅のための区画割が行われていますが法広寺付近の線路西側はまだ手付かずで26丁目道路と南6線道路が一つの真っ直ぐな道路のように描かれています。その2年後の1933年の地図では十勝鉄道西側が向陽台分譲地と名付けられ現在のバス路線と同じく遠回りする道路がメインルートのように描かれています。なぜこの26丁目道路と南6線道路は前回の南2線から南4線のように滑らかにズレを調整せずシケイン状にガクッと急激にズレを合わせるような道路になったのでしょう?

一つ目の理由として地形があげられます。法広寺の辺りの標高は55m、法広寺から200mほど西にあるおびひろ動物園の標高は66mとこの付近で段丘のようになっています。法広寺から200mほど南側を走る道道151号幕別帯広芽室線線は比較的最近できた道路ですがこちらは段丘を掘割状のトンネルでやり過ごします。掘割状の公南弥生トンネルは帯広市唯一のトンネルとも言われおり路線バスでは十勝バスの73系統や79系統でトンネル内を通過できます。地形的に西4号より西側で緩やかにズレを調整するには掘割を作らなければ難しいでしょう。西4号より東なら緩やかに調整できたでしょうが市街地区画にこだわっていたのか西10条までは26丁目道路を真っ直ぐ作ってしまい西10条から西12条の短い間で道路を斜めにして調整してしまうと区画に無駄が多く生じてしまい出来なかったのだと思います。

地形以外に理由はあるか?と言いますともう一つ大きな理由があります。それはこの法広寺の南西側西4号(公園東通)以西南6線以南がかつて帯広市ではなく川西村だったからです。帯広市としては南26丁目道路として西進する道路と川西村としては南6線道路として段丘を下りながら東進する道路。南26丁目道路と南6線道路を直通するような交通が主流でなかったこともあり滑らかさが重要視されることもなく今の道路の線形が残ったと言えるでしょう。

 

現在のバス路線は法広寺から西4号(公園東通)を南へ走る70系統大空団地線がメインですが、大空団地ができる前は法広寺からそのまま坂を西へと登り(旧)動物園〜東官舎〜別府団地〜稲田〜日甜住宅へと至る東官舎線が走っていました。当時の時刻表の路線図を見ると十勝バスの東官舎線は国鉄バスの通った道道八千代帯広線ではなく一本東の道路を走っていたように見えます。法広寺から動物園、緑ヶ丘墓地の南側を通り今の稲田バス停のある旧稲田消防署(正確には帯広市消防署南出張所)まで今の西14条と西15条の間(かつての南町東1条と南町東2条の間)の道路を通るように推測されます。この道路、今となってはただの住宅街の間の道路ですが昔の地図を見ると道道八千代帯広線の次にはっきりと描かれています。地図ではなく航空写真になりますがこちらをご参照ください。稲田バス停から緑ヶ丘墓地〜動物園〜法広寺西側〜(旧)刑務所〜記念碑(現在の西5条交番前交差点)というルートは道道の抜け道のような存在だったようです。後に十勝バスも国鉄バスと同じ道道経由の路線を開設する時に別府団地のバス停は置かないことが条件となったのか、JR北海道バスの十勝線が廃止されるまで東官舎〜十勝共栄(今の南町中学校入口)の間の道道沿いに十勝バスのバス停は置かれませんでした。

 

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1960年代の帯広市内南部のバス路線図は上のように推定します。黄色は十勝バス。青色は国鉄バスです。動物園から稲田までの区間で十勝バスが道道を通らなかった確証があれば推定ではなく確定と言えますが現段階では推定です。動物園から稲田までの区間以外に間違いはないと思います。路線図では分かりにくいのですが、市内南部を西5条から帯広駅前に向かう路線で記念碑から真っ直ぐ市役所を経由するのは循環線くらいでした。東官舎線はどこを通ったのかというと記念碑から大通16丁目、12丁目、西1条9丁目を通り帯広駅前に向かいました。駅南区画整理や高架駅完成後の今となっては記念碑前から大通16丁目を経由するのを不思議に思う方が多いでしょうが畜大線や八千代線は81.11改正までこの駅前〜大通16〜記念碑という経路で走っていました。

西1条9丁目のバス停も世代によって思い出す店が色々違って面白そうです。今となってはますやパンの向かいですがインデアンカレーの隣であったり帯広劇場の前であったり。記録に残りにくい路線バスだからこそバスファンはしっかりと記録していきたいものです。

帯広のズレを楽しむ会 第1回

集まれ!北海道の学芸員のコラムリレー第24回に帯広市街の話があります。

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この話に出てくるのは今の十勝バス1系統循環線の東4条14丁目バス停のある交差点に交わる営林局通という道路です。かつての十勝バス東営業所のすぐ側で数年前まで教会前という名前のバス停でした。このズレは端的に言うと殖民地区画の南3線と市街地区画の南13〜14丁目とでは一区画の基準が違うので基準の境界が重なる所にズレが生じるということで、この東西の道路が滑らかに通行できるよう今は東大通(東4条通)の東側の道路の線形を変更していますが以前は東西方向に通行しようとするとシケイン状になっていました。

 

 

 

コラムではこの一か所を紹介していますが帯広市内でバスに乗っていると他にもこうしたズレを感じる所がないだろうかと気になります。

 

東4条14丁目から1系統循環線をそのまま帯広競馬場のほうへ乗り通すと西南大通から白樺通へと右折します。白樺通は南9丁目と南10丁目の間の道路ですから西9条9丁目のバス停では競馬場・本社行きは西向きなので当然道路の右(北)側が南9丁目左(南)側が南10丁目になります。バスは次の西11条9丁目にさしかかるとウツベツ川を渡る橋の前後で緩やかな右S字を描いてカーブします。そして帯広競馬場前の交差点にある信号の住所表示を見るとどうしてか右を見ても左を見ても西13条南9丁目になります。

 

 

 

南9丁目と南10丁目の間を通っていたはずなのにどうして?とパニックになることはありません。あなたの今いる場所は市街地区画の南9〜10丁目の間の道路ではなく殖民地区画の南2線の道路だからです。植民地区画の真ん中に帯広市街の市街地区画を作ったので基準の線(国道38号線と大通)以外ではどこかでズレが発生して気付かないよう真っ直ぐ走るためにどこかで調整しているのです。南2線と白樺通では根室本線の鉄道高架完成後このウツベツ川を渡る辺りで調整しています。高架になる前は根室本線の踏切(西6条)から西5条の間で調整していました。西5条通がアンダーパスだった頃上を走る9丁目道路が斜めに架かっていたのはそのためです。なかなか良い画像がなかったので昔の帯広市広報のリンクを紹介します。昔の航空写真を見た方が斜め具合はわかりやすいです。

http://www.city.obihiro.lg.jp/d-koho/d100102backnumber.data/11.2007-01.pdf

帯広市広報はpdfです。一番最後のページにアンダーパスの画像がありますが斜めになっているのはちょっと分かり難いです)

 

では、南3線と新緑通(南13丁目〜14丁目)や南4線と春駒通(南17〜18丁目)でもズレの調整があるのでしょうか?もちろんあります。

ではどこか?というとどちらの道路も西5号(西15条通)と西6号(西16条通)の間で調整しています。バス停でいうと新緑通は西15条13丁目から新緑通16条を経て西16条4丁目(いきなり丁目の数字が変わりますが同じ街路上です)の間で緩やかに北へ、春駒通は緑ヶ丘小学校から五中前の間で緩やかに南へそれぞれズレています。

 

 

 (バス路線が分かり難い場合は交通状況をオンにするとバス路線=ズレがどこか分かり易くなります)

 

帯広を中心とした殖民地区画の名残のバス停名は数年前まで市街地にも多く残っていたのですが今は十勝バス拓殖バス両社ともに帯広市街地にはほとんど残っていません。今でも残るのは団地名として残った十勝バスの14号団地、西11号団地、西10号団地や拓殖バスの西10号6丁目、隣町音更の緑陽台8線でしょうか?殖民地区画の交点にあるバス停として純粋に生き残ったのは帯広市街から近い所だと31系統の南2線16号やS12系統の芽室16号より西側、10、17系統の札内6号や45系統の下士幌6号より東側になります。また、帯広を中心とした殖民地区画とは異なる区画ですが2系統の川西2号や60系統の川西3号も市街地からは近いです。

 

以下に思い出せる範囲で1981年11月以降帯広を中心とした殖民地区画が由来のバス停名を北西側からあげてみます。カッコ内は現在のバス停名。

【基線(国道38号線)】国道15号(国道西25条)、国道14号(国道西24条)

【西14号】14号団地(現存)

【南1線】南1線(西帯広コミセン前)、西11号団地(現存)、西10号団地(現存)

【西10号】10号橋(廃止)、西10号6丁目(十勝バスのみ西20条6丁目・拓殖バスは現存)、西10号5丁目(栄通5丁目)、西10号4丁目(十勝バスは栄通4丁目・拓殖バスは西20条4丁目)

【南2線】南2線15号(西25条2丁目)、南2線14号(西24条2丁目)

【南4線】4線17条(西16条5丁目)元の南商業高校前でJR北海道バス時代に高校移転で改称

【南5線】南5線15条(西15条6丁目→常磐通6丁目)、南5線16条(西16条6丁目)南5線17条(西17条6丁目)、南5線18条(自由が丘2丁目)、南5線20条5丁目(森の交流館下)

【南7線】南7線(西12条31丁目)

【南8線】南8線(西5条34丁目)

【南9線】(元は空港入口で空港移転後)南9線(南町郵便局前)、南町9線(南の森西7丁目)

【南10線】南10線(南の森西4丁目)、南町10線(南の森西9丁目)

【南11線】南11線(光南病院前)

【南12線】南12線(廃止)

【東3号】宝来3号(廃止)

【東5号】宝来5号(廃止)

【東6号】札内6号(現存)下士幌6号(現存)、宝来6号(廃止)

【北6線】音更6線(木野大通14丁目)

【北7線】音更7線(木野大通16丁目)

【北8線】音更8線(木野大通18丁目)、緑陽台8線(現存)

【北9線】柳町9線(よつば乳業東口)

 

残ったところはほとんど都会っぽいバス停名に変わっちゃいましたね。循環線が南8線から北高移転に伴い延伸した時にできた稲田基線(西10条39丁目)や稲田東1線(西8条39丁目)、稲田東2線(西5条39丁目)なんかはどうして無いんだという方がいらっしゃるかもしれませんがそちらは川西2号より南が入らなかったのと同じ理由です。それを入れるなら川西0号や1号、音更1号から北なんかも入れたくなりますからキリがないということでご了承ください。

昔の時刻表から道東バスと国鉄バスを考える

私にとって無い頭を捻るような難しい記事続きでしたので昔の時刻表から思いついたような簡単な記事でも。


手元に1982年2月の弘済会発行道内時刻表があります。そこから懐かしの路線をいくつか。


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十勝バスでは大津、長節湖行き。浦幌〜留真温泉や浦幌から本別まで直通していた留真線。拓殖バスの上士幌線は健在ですが足寄急行線や東瓜幕線。東瓜幕線は通学需要のある時間帯は東中音更を経由してますが経由しない便もあります。東瓜幕線もそうですがその下の士幌や池田町内の路線は元国鉄バスの路線群。一番下にはまだ現役の国鉄バス大樹の三路線。

見ているだけでワクワクしてきますが今回の注目点はそこでもありそこではない更に下の路線図です。


弘済会の道内時刻表はバスの時刻は最新のものであっても路線図はなかなか更新されず古いまま残っていることが多かったです。ということで路線図から廃止になった路線を推測できないかという試みをしてみます。

この画像だと十勝清川から忠類間、大樹から広尾間、帯広から下士幌、昭和経由士幌間の国鉄バスや足寄陸別間の旧道東バスはもう運行していません。余談ですが豊頃浦幌間の十勝バス浦幌線で主な停留所が吉野や十勝共栄ではなく万年(入口)というのも興味深いです。


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こちらの画像は十勝バス幕別温泉線や途別線、広尾線のページですが下の路線図に道東バスが元気だった頃の様子や北見バスも陸別町まで乗り入れていた様子が分かります。

上士幌足寄間の芽室は芽登の、幕別と大津豊頃間の茂別は茂岩の誤植でしょう。士幌池田間の国鉄バスが様舞を経由しているような図になっていますが十勝バス足寄線との交点になっているなら高島が正しいはずです。


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このページに路線図はありませんが日勝峠スカイラインの記録として紹介します。十勝バスの日勝線は国鉄バスより途中のバス停が多かったです。下にはまだ静内浦河間を走る国鉄バスがいくらか残っていますね。


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帯広〜襟裳岬へ直通する便はもうありませんが様似〜襟裳岬〜広尾間を国鉄バスの急行便が走っていた記録を。冬なので運休中ですけどね。この頃は全線普通便で乗り通そうとすると庶野で乗換えが必要でした。冬なので襟裳岬まで行く便も無く灯台口までの便になってます。下は広尾が絡む国鉄バス日勝線の路線図です。あまり今と路線自体は変わりないかもしれませんしついつい夕張のほうに目が行ってしまいます。


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最後に北伏古と中仙境自衛隊方面、大樹からの国鉄バス以外は全部十勝バスな路線図です。新得や浦幌といった幹線以外にも八千代、上札内尾田廻り広尾線のような亜幹線。十勝川温泉経由池田、古舞、糠内、喜楽沢といったローカル線でもまだまだ元気のあった時代でした。