広尾行きのバス会社全7社の記録を辿る

十勝で最も歴史のある町で最南端の港町広尾。十勝地方に鉄道が来るまでは十勝で最初のものが広尾から広まったり最古のものが今も残ったり。内陸の帯広が拓けるまでは広尾と大津が十勝で一二を争うくらい勢いのある町でした。そんな広尾の街に路線バスが走った記憶を探してみましょう。

 

広尾市街に乗用自動車が登場したのは1918年10月9日。元河西支庁長諏訪鹿三氏が選挙運動(何の選挙かは不明)のために帯広の笹島吉治郎氏が営業許可を受けた車に乗ってやってきたのが最初と言われています。季節は秋で農作物の出荷がピーク。広尾までの道中、見慣れぬ自動車に驚き転覆したり側溝に落下する馬車が続出し到着は遅れ、広尾市街入口である楽古の坂上に着いたのは夜の8時になったそうです。そこで一行が見たのは火事のような明るさにに包まれた広尾市街地でこれは大変と急いで駆けつけてみればなんのことはない。その日は広尾市街に初めて電燈の灯りが点いた日でもあったのでした。この時の自動車を運転していたのは山畑竹之助氏。この山畑氏は後に広尾の路線バスに大きく関わっていくことになります。

 

広尾最初の乗合自動車は1919年の秋(月日は不明)栄定男氏が帯広までの運行を始め、続いて1922年(月日は不明)に竹腰広蔵氏、奥田太郎氏、秋山某氏と続々と事業を行う者が現れます。栄氏が始めた頃の帯広までの運賃は一人15円もしくは20円だったものが10円になり、奥田太郎氏の奥田自動車部が定期運行を始める1925年(月日は不明)には運賃は5円28銭になります。1926年3月1日に十勝自動車合資会社が発足しますが代表者は竹腰広蔵氏、無限責任社員は山畑竹之助氏と栄定男氏という広尾で乗合自動車事業を始めた者が多い布陣になっています。

芽室町の回でも書いたように1928年の年始までには十勝乗合の代表者は野村文吉氏に代わり竹腰氏は帯広の西隣の芽室で新たに乗合自動車事業を始めますが、同じく広尾では山畑氏が元野元吉氏、高松彦三郎氏、佐藤富治氏と新たに乗合自動車会社を興します。それが1928年9月22日に創立した(広尾)金線自動車合資会社になります。広尾金線は翌1929年6月から郵便物の逓送を委託され1931年には26人乗りのバス車両を導入するなど順調な滑り出しをしたように見えました。

 

 f:id:Zentokachinoriai:20180421230847j:plain

 (広尾町史年表より一部を切り抜き転載。上が金線自動車)

 

1929年11月2日に国鉄広尾線は中札内まで開業するものの広尾まではまだ遠く、広尾帯広間の旅客輸送は乗合自動車が主流でしたが事業者が広尾金線・十勝自動車・奥田自動車・大印自動車の四社と多く競争はやがて行き過ぎた運賃値下げへと発展します。

それまでも1926年7月21日の東京相撲帯広興行では往復6円、国鉄広尾線が大樹まで開通した1930年10月10日大樹で行われた式典参加者を狙い広尾大樹間を1円で運行したりしていましたが、1931年には広尾帯広間で1円、ついには更に半額の50銭にオマケの手拭いを付けるというところまで行き着いてしまいます。

この競争に一番迷惑したのは広尾市街でタクシーを営業していた福西芳夫氏や(東陽館の)元野栄太郎氏で「帯広まで行っても50銭でオマケに手拭いまで付くのにお前のところは隣まで行っても50銭とは何事だ」と言われ非常に困ったそうです。話は逸れますが東陽館の元野氏の災難はまだ続き1935年7月にシボレーの新車を購入したのに9月26日には大時化の黄金道路目黒橋先で激浪にその車を奪われてしまいます。

 さすがに50銭時代は長く続かず1932年9月21日広尾金線は廃業になってしまいます。すると翌日十勝自動車と奥田自動車は運賃を前日までの3倍の1円50銭に引き上げます。

 

十勝・奥田という二大バス事業者の他に十勝地方の海岸沿いではもう一つ忘れてはいけないバス事業者がいます。それが大津帯広間や止若糠内間などで力をつけていた大印自動車合資会社です。なぜか広尾町史、新広尾町史共に大印自動車についての記述が本文中にはなく資料や年表に載っているのみなのですが、その大印自動車は大樹町史によると1927年7月に広尾帯広間の運行を開始し、広尾町史年表125ページによると1934年に広尾〜サルル間を大型50人乗りバスで試運転したそうです。この路線、広尾町史年表ではサルルと書かれていますが十勝バス70年史の32ページの大印自動車の項ではルベシベツと書かれています。大印自動車のサルルがどこかは不明ですがこの路線を受け継いだであろう十勝バスの広尾〜ルベシベツ間は路線距離が11.92kmでこれは今のジェイ・アール北海道バスの留別バス停とほぼ同一です。大印自動車の広尾サルル間の本運行は同じ1934年11月3日からとのことですがどこに車庫を置いたかは分からず仕舞いです。車庫といえば同じ1934年の12月には十勝自動車は本通7丁目に支店車庫を新築したそうです。

 

f:id:Zentokachinoriai:20180512142434j:plain

(1934年末の広尾町内バス路線図。黄色は十勝自動車、水色は大印自動車、奥田自動車や大印自動車が広尾市街のどこを起終点にしていたか不明)

 

 戦後の1946年11月25日には省営バスことのちの国鉄バスの運行が様似へ2往復、日勝目黒へ3往復で始まります。最初の仮庁舎は楽古の廠舎に置かれますが翌1947年12月には今の帯広日産広尾店の場所である当時の字茂寄基線1に移転します。町史には事務所車庫職員宿舎が街の形態に一層の重きを加えたと書かれています。

また、1954年11月からは今の十勝バスである帯広乗合の広尾〜豊似〜上豊似2往復の運行も始まります。

 

f:id:Zentokachinoriai:20180512142540j:plain

(1954年末の広尾町内バス路線図。黄色が帯広乗合、青色が省営バス)

 

国鉄末期の1981年11月20日国鉄バス広尾支所は今の十勝バス広尾営業所の場所へ移転して広尾市街の路線が丸山方面で少し延長されます。

 

f:id:Zentokachinoriai:20180512142556j:plain

 (1981年11月20日広尾町内バス路線図。黄色は十勝バス、青色は国鉄バス)

 

1987年2月1日に国鉄広尾線は廃止され翌日から鉄道代替バスが十勝バスによって運行されます。この改正で十勝バスは旧広尾駅に入込みを開始して快速便は旧駅前が終点、普通便は7丁目から延伸して役場前が終点になりました。JRバスは再び旧駅前が起終点に戻りました。

 

f:id:Zentokachinoriai:20180421181951j:plain

(1987年2月2日の広尾町内バス路線図。黄色が十勝バス、青色がJR北海道バス

 

この後1993年4月までに十勝バスの路線は快速便の旧駅前終点普通便の役場前終点を役場前〜柔剣道場前〜神社前〜丸山3丁目〜桜ヶ丘団地〜営業所まで延伸運転したり、1994年4月改正から1999年11月までシーサイドパーク前への入り込みを開始したり、

f:id:Zentokachinoriai:20180422125424j:plain

(1993年4月の広尾市街バス路線図。JRバスは変更がなく省略)

 

更に2011年4月には広尾小と広尾第二小の統合で遠距離通学になる児童救済のため経路を変更した今の形に至ります。

f:id:Zentokachinoriai:20180422123340j:plain 

(2011年4月の広尾市街バス路線図。旧広尾小学校は役場北側。新広尾小学校は旧広尾第二小学校の校舎を使用。JRバスは変更がなく省略)

 

広尾市街に存在したバス会社の車庫。

f:id:Zentokachinoriai:20180421231103j:plain

(黄色まは十勝バス、青色は国鉄バス、白色は金線バス。丸数字は置かれた順番)

 

最後に山畑竹之助氏について。本通12丁目に山畑商店という今は製麺を主にする会社があります。町史の本文では特に記述がないのですが1959年4月の町内商工業者の現況一覧に山畑商店と山畑竹之助氏の名前が出ています。同一人物なのか初代と二代目なのか分かりませんが金線自動車の後は米穀食品業になり今の山畑商店に至っているのかもしれません。

 

f:id:Zentokachinoriai:20180422111625j:plain

広尾町史551ページより最下部の電話番号を省いて転載)

国鉄バス対十勝バス 4線5線戦争番外編!芽室町での戦い

帯広の西隣芽室町。最近廃止から復活した清水町から帯広への路線バスが話題になりましたがもともとはどういう路線が芽室町内にあったのでしょうか?芽室町史は五十年史、八十年史、百年史とありますが交通の章の路線バスの記述が一番緻密だったのは八十年史だったのでここでは八十年史をもとに見ていきましょう。

 

芽室での路線バスの始まりは1928年5月15日竹腰広蔵氏の第一自動車商会による芽室〜上美生・上伏古の循環路線です。竹腰氏は1921年に帯広から音更・広尾と帯広市街の路線バス事業を始めて1925年に十勝自動車合資会社を創立した方です。1928年の年始に十勝自動車の経営の実権は野村文吉氏に移っていたようで竹腰氏はその年の春に芽室での路線バス事業を始めたということになります。

芽室駅北側の本通2丁目(第一自動車商会前)を起点に中美生〜上美生〜20号道路〜上伏古〜10線8号(坂の上)を経て芽室に戻る路線で始まりましたが乗客の少なさと20号道路(今の道道55号清水大樹線)が悪路でのちに芽室〜上美生と芽室〜上伏古の二系統に分かれての運行になります。この時の芽室上美生間の運賃は40銭で車両は客席5名運転席に運転手1名助手2名が乗るホロ型ということです。

 

1930年6月10日には野村氏の十勝自動車(芽室町八十年史には帯広乗合自動車株式会社と書かれていますが当時はまだ十勝自動車合資会社のはずです)の帯広芽室間の路線で運行が始まり、翌1931年7月11日には芽室清水間、同年11月10日には帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室の今でもあれば芽室北線と命名されそうな路線も運行を開始します。

 

戦後の新規路線開業は1948年6月10日、今の東2条南1丁目に国鉄バスの帯広自動車区芽室支所が置かれ西士狩線(帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室)と平和線(芽室〜祥栄〜平和〜元駅逓)の二路線で始まります。

民営では帯広乗合が1950年8月10日に帯広〜芽室〜毛根〜熊牛〜屈足の屈足線、翌1951年9月1日に上伏古線から枝分かれする形の芽室〜坂の上〜13号道路〜上帯広の上帯広線の運行を始めます。また戦時中は休止していた芽室北線こと国見・西士狩経由の帯広芽室間を1951年10月に再開させます。国鉄バスが国見・西士狩経由の帯広芽室間の西士狩線の免許を受けることができたのは同じ経路の帯広乗合が休止していたからなのでしょうが、芽室北線が再開されて競合で大変だったのではと思う間もなく国鉄バスの西士狩線は半年もたず1948年11月3日に休止となります。(廃止は1972年6月1日)

国鉄バスの芽室支所の廃止は早く1952から1953年の間ですが帯広から回送で芽室まで来る形態で支所廃止による運行への影響はなかったそうです。芽室支所の施設は芽室町の土木車両の車庫、職員住宅は町職員住宅に使われたそうですが1964年の大火により共に焼失しています。

 

1955年に帯広乗合(帯広バス)から社名を変更した十勝バスとはその後も路線の申請合戦の体で芽室西部方面は1954年9月1日に国鉄バスが芽室〜高岩〜渋山〜旭山〜御影の運行を始めれば1956年2月20日に十勝バスが芽室〜高岩〜上芽室〜御影の御影線を始め更に国鉄バスは1957年11月に自社線の南側を通る芽室〜高岩〜報国〜渋山〜上渋山の枝線を始めると言った熾烈な競争が始まります。

ちょうど帯広市内でも緑ヶ丘病院や帯広南商業高校が出来る頃で国鉄バスと十勝バスで4線5線戦争が始まろうとしている頃ですが同時に芽室町でも戦いが始まろうとしていました。帯広市内4線5線戦争の余波なのか単なる路線延伸政策の一環なのかの判断は読んだ方にお任せしますが芽室町内の東側でも競争が激しくなってきて1956年2月16日には国鉄バスが芽室と帯広両方向から北伏古や日の出まで、1959年5月にはついに日の出から上帯広の対岸にある栄まで進出してきます。これには十勝バスもたまらず3ヶ月後の1959年8月12日から芽室〜上帯広間の経路を坂の上(10線8号)経由から農業試験場〜6線経由へと経路を変更して反撃を開始します。元の経路の10線8号から13号〜6線〜共栄〜上伏古〜10線8号という循環線も運行を始め二重に防衛線を設定して国鉄バスの南進を阻止しようとします。

さすがに競争が厳し過ぎると感じたのか両社ともこれ以降は他社の運行エリアを伺うような路線の申請は1960年10月14日の十勝バスの芽室から毛根〜関山〜上関山の路線が最後となり、国鉄バスは祥栄の東の北明地区に1962年10月1日、十勝バスは1961年8月5日に上美生の先の雄馬別循環や観光シーズンの日祭日のみ運行の伏美湖といった自社線の延長に重きをおくようになります。この時代最後の新規路線は1965年1月11日の十勝バスの南2線経由芽室線(芽室南線)になります。

 

1965年夏の芽室町両社路線図(国鉄の西士狩線は既に休止ですが廃止にはなってないので図に掲載してます)

f:id:Zentokachinoriai:20180411170926j:plain

(黄色実線は十勝バス、青色実線は国鉄バス、青色破線は十勝・国鉄道南バスの日勝スカイライン。高岩・上芽室経由の十勝バス芽室御影線と毛根経由の上関山線は経路がきちんと分からず不掲載)

 

1966年になると両社の戦線も落ち着きだしたのか休止路線が出てきます。年初には十勝バスの高岩・上芽室経由御影線、11月5日には国鉄バスの報国経由上渋山線。1967年2月1日には十勝バスの西士狩線が休止、1969年7月14日には農業試験場〜上帯広が区間休止、10月27日には上美生〜伏美湖の区間と上関山線が休止。そして1970年になると12月25日に平和・北明・元駅逓方面の国鉄バス平和線が、3日後の12月28日には既に休止していた上渋山線と御影線が廃止になります。

1971年8月2日には芽室町国鉄バスの車両の払下げを受け町営で廃止された上芽室・上渋山・平和方面で代替バスの運行を始めます。池田町同様廃止後即町営バスが代替できたわけではないですが池田町の時よりは早く町営バスの運行が始まったのは池田町の苦労のおかげかもしれません。

路線の休廃止は止まらず、1972年3月23日には休止していた十勝バスの高岩・上芽室経由御影線が廃止、3月31日には国鉄バスの芽室〜大成〜北伏古線が休止、6月1日にはその国鉄バス大成経由の北伏古線と1948年に休止になって以来すっかり忘れられたいたのかどうかは分かりませんが西士狩線の二路線が廃止になります。そしてとうとう1973年3月31日には芽室駅前から唯一発着していた国鉄バスの芽室〜北伏古〜栄小学校間(日の出線)も廃止となり芽室駅を発着する国鉄バスがいなくなってしまいます。(北伏古には帯広からの路線もありそちらはもう少し残ります)

 

1981年夏の芽室町両社路線図

f:id:Zentokachinoriai:20180411170936j:plain

 (黄色実線は十勝バス、青色破線は十勝・国鉄バスの日勝スカイライン、帯広発着になった国鉄バス北伏古線は省いています)

 

十勝バスのその後は1985年夏ダイヤでは新得線の急行運転取りやめ各駅化、1987年には上伏古線、上美生線の両線が廃止となります。1991年夏ダイヤでは帯広市内の経路がそれまでの国道38号線直通から南1線柏林台北町経由へと変更されました。朝の十勝支庁への通勤や柏葉高校通学者救済のため上り1便のみ道職員住宅のある芽室東5条や国道38号線・帯広西2条通経由の帯広駅行きは残されたものの大胆な組み替えでした。

1993年夏ダイヤでは芽室南線の一部を大谷高校経由にした芽室大谷線を、1998年8月1日には上伏古・上美生線廃止後バスの走らなかった芽室市街鉄南地区を走る鉄南循環の芽室線の運行が始まります。

 

1998年の芽室市街十勝バスの路線図

f:id:Zentokachinoriai:20180411171005j:plain

(実線は30系統芽室線、丸破線は31・33系統、長破線は32・34系統緑町終点、短破線は30系統芽室循環線)

 

2002年夏ダイヤをもって新得線、芽室市街の鉄南循環、大谷高経由の芽室南線はそれぞれ廃止、2009年夏ダイヤでは国道・南1線柏林台北町経由の帯広駅前発着便を全廃し芽室市街の循環線化など色々な取り組みをして先日の清水芽室間再延伸こと清水帯広線の新設に至ります。

 

2009年の芽室市街十勝バス路線図

f:id:Zentokachinoriai:20180411171034j:plain

(実線は31系統、破線は通勤通学バスことS12系統)

 

以下に芽室町内の路線バスにまつわる年表を載せます。抜けてるところもあるのですが少しでも皆様の理解の一助になれば幸いです。

f:id:Zentokachinoriai:20180412001412j:plainf:id:Zentokachinoriai:20180412001424j:plainf:id:Zentokachinoriai:20180412001459j:plainf:id:Zentokachinoriai:20180412001509j:plain

(黒字は新規開業または延伸、黄字は休止、赤字は廃止、青字はその他のトピック)

注1.1966年11月5日の国鉄バス上渋山線運休が脱落

注2.1987年の十勝バス上伏古線・上美生線の廃止が脱落

 

最後になりますが芽室町八十年史では十勝バスの西士狩線は廃止になったという記述をついに見つけることができませんでした。もしかしたらのちの中鈴蘭線や緑陽台経由音更線に西士狩線の一部区間が流用されたのかもしれません。

道東バスの痕跡を探して 第2回 池田町編

 池田町の路線バスの始まりはというと池田や利別の市街地より早く今の幕別町新川地区を1927年に通った大津市街〜帯広駅間の名畑仁太郎氏の大印自動車が最初の運行と言えそうです。なぜ幕別町新川が池田町の路線バスの始まりに関係あるのかというと幕別町新川がかつて池田町の上統内という地域だったからです。新川とは文字通り新しい川で今の千代田から茂岩まで直線状の統内新水路を造ったことに由来します。統内の新水路工事には蒸気機関車も使用されたりしていますがここはバスの話。十勝バスの浦幌線の末期には新川始発浦幌行きが運行されていました。そんな新川(上統内)の対岸の利別や池田市街地の路線バスの始まりはというと池北三町の回

zentokachinoriai.hatenablog.jp

の通り翌1928年に松本峯太郎氏(後に佐々木時光氏から中央乗合自動車)による池田〜本別間の運行で始まります。池北三町の回であえて細かく触れませんでしたが池田〜本別間の運行と聞くと世代によってはかなり違和感を感じる表現かもしれません。オールドファンとしてどこに違和感を感じてほしいかと言いますと池田〜本別ではなく利別〜本別間ではないのかというところです。

現行の十勝バスの利別〜池田〜様舞〜近牛〜高島の池北線沿いの経路は2002年から。それまでは利別〜豊田〜青山〜信取〜高島の国道を主に走る経路でした。ではこの1928年の池田〜本別間の松本・佐々木氏の路線バスはどこを通ったのかというと池田〜利別〜青山〜高島〜勇足〜本別という池田から利別川を渡り利別以北は高島の対岸まで一度現国道を通る2002年までのバス路線と同じ経路でした。

 

池田町内関係の路線バス網図(同時に全て存在したわけではありません)

f:id:Zentokachinoriai:20180408162526j:plain

(1980年頃の道路状況を元に作成。黄色は十勝バス系列が始めた路線、赤色は道東バス系列が始めた路線、青色は国鉄バスが始めた路線、緑色破線はブルーグラス号)

 

次に定期運行が始まったのは帯広〜幕別〜池田間の竹腰広蔵氏(後に野村文吉氏)の十勝自動車の路線なのですがこの当時の十勝自動車は貨物事業も行っていて幕別経由の帯広〜池田間は貨物の路線でした。よって二番手の路線バスと言えるのは中央乗合の本別〜池田〜帯広か雨宮房一氏の雨宮バスの池田〜下士幌〜帯広の二路線となりそうです。

 

戦後になると国鉄バスの台頭が始まります。池北三町の回で本別・勇足〜士幌間の国鉄バスについて書けなかったので今回の図に本別分も含めてますが1951年6月11日に池田〜昭栄〜豊頃〜茂岩〜駒畠の運行が認可され続いて1953年には池田〜様舞〜高島〜常盤〜下居辺〜士幌市街の運行も開始されます。4年後には駒畠から大樹までの国鉄バスも運行を始めるので大樹から士幌まで国鉄バスの路線網が繋がるという今では考えられない時代がやってきます。1955年11月には国鉄バスの東台線も池田から東台郵便局まで運行を始め1957年には東台から富岡第三会館まで路線を延長します。1955年には道東バスが利別〜川合〜育素多〜茂岩という国鉄バスの対岸を走る路線を始めますがこれは長続きしなかったようです。

 

十勝のどこの市町村でもそうですが1950年代に国鉄・民営ともに路線バス網が急拡大するものの早いところでは1960年代前半から1970年あたりまでにはかなりの規模の小路線が廃止されています。これをモータリゼーションの進展と離農や過疎化の影響と言って終わらせることは簡単なのですが1960年代の十勝地方の農村部に何があって離農しなければならない人が続出したのかというと冷害が続いたことの影響が大きかったという記述が各市町村史にほぼ記載されています。特に国鉄バスのこの時期の地方路線の休止廃止には冷害による離農と過疎化の影響はかなり大きかったと考えられます。

 池田町内の国鉄バスの休止廃止はまず1962年10月高島〜様舞〜池田の国鉄池北線並走区間の休止から始まります。国鉄バスの士幌へ行く路線は高島〜常盤(士幌町界)まで、勇足へ行く路線は池田〜富岡(第三会館)まで、豊頃へ行く路線は昭栄(豊頃町界)までへとそれぞれ分割、短縮されます。過疎化の影響は大きく運行区間を短縮した高島〜常磐間の国鉄バスは結局6年後の1968年に廃止されます。

池田町は大きな町にも関わらず民営の路線バス事業者の車庫が存在したという公的な記録がなく、池田中心部から各集落への短距離の支線の運行は短期間の運行に終わった利別〜豊頃の路線以外は国鉄の路線以外になかったことから高島〜常盤間の代替バスの運行は結局池田町自身で行うことを決めます。今では自治体が路線バスの代替バス白ナンバーの車両で運行することは珍しくないですが当時は大変だったようで国鉄バスの廃止後すぐの運行はできず1969年12月1日に認可され翌1970年2月24日に池田町営バスの高島〜常盤間の運行が始まります。当時の銀色の車体に赤帯のカラーリングと白ではなく緑ナンバーでの運行となった池田町営バスはまるで東急バス系列の路線バスが走っているかのような印象でした。

池田町営バスの運行が始まったおかげで居辺小学校の学校給食を町営バスで搬送することができたなど旅客輸送以外にも恩恵はあったようです。この高島〜常盤間の公共交通は住民による運行組合方式の殖民軌道オルベ線から始まり国鉄バスを経て再び自主的な町営バスに戻ったと言えそうです。

 

 最後に利別のバス停について触れておきます。今の十勝バスの利別バス停は道道帯広浦幌線沿いにありますが以前は国道沿いの農協前にありました。今の国道と道道の交差点は単純な十字路になっていますが以前は国道が緩やかなカーブになっていていて利別のバス停はカーブの北側にありました。以前の交差点の線形は航空写真を見れば一目瞭然です。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=915335

以前の国道沿いの利別バス停は道東バス十勝バス合併後西側が足寄・阿寒湖・池田行き、東側が幕別十勝川温泉・帯広行きで使用していました。 今の利別と三番通りのバス停間の距離が短いのはあとから利別バス停が移設されたからということです。

 

結局池田町には他の池北三町と違い文書に残る道東バスの痕跡というものは見つかりませんでした。十勝地方でも大きい町ですし町史の路線バスに関する記述はかなり豊富なのですが池田町で道東バスの痕跡を探すのは実際に現地に行かないと難しそうです。

十勝のバスと文学

鉄道ならいざ知らず十勝地方の路線バスが出てくる書籍はどれくらいあるのでしょう?世の全ての書籍を知っているわけではないですが知っているものから三冊ご紹介します。

 

1.『北海道 鉄道跡を紀行する』

 

zentokachinoriai.hatenablog.jp

の回でもチラッと触れた堀淳一さんの1991年の本です。廃線跡がメインなのでバスの描写は極小ですがどこからどこまで乗ったかくらいは出てきます。十勝地方からは大樹から忠類、更別にかけての広尾線跡と糠平以北の士幌線跡、新得から南新得と清水鹿追間の北海道拓殖鉄道と河西鉄道の立体交差跡の三つの路線が取り上げられていますが、拓鉄跡のエピソードにはバス移動についてのエピソードが出てきません。なので広尾線跡と士幌線跡について見てみましょう。

広尾線跡の回ではまず「帯広からバスに乗った。上札内経由だったので大樹27号で降りる。」とあります。訪問したのは1990年6月と書かれていますがこの当時上札内経由は日曜祭日運休便はなく全日4往復の運行です。同じ日に全行程を回っているようなので午後の二便(帯広15時発と17時半発)を利用したとは考えにくくよって堀さんが実際に乗車したのは帯広7時発か10時発だと考えられます。大樹27号着が8時18分か11時18分頃。歴舟川に架かる橋を眺め大樹市街まで歩き今度は忠類へ向かいます。坂はあっても下り坂なので10時か13時頃までには西本通りに着くでしょう。西本通りからはちょうど(快速)10時7分、(普通)13時22分の便があり忠類には10時19分、13時33分に着きます。この当時快速は既に快速運転を取り止めていますので快速表記は大樹市街の経由地の違いと広尾市街の広尾(旧駅)止まりか終点の営業所まで行くかの違いを示すのみになっています。時刻表の所要時間は普通のほうが1分早いですが余裕時分の取り方の違いで快速と普通で実際の所要時分に違いはないと思います。

大樹駅跡に興味を示さなかった堀さんは忠類駅跡には大変ご満悦で足取りも軽やかに、かどうかは分かりませんが徒歩で忠類坂に挑みます。最後かなり急いでバス停まで向かっていますがおそらく2時間あれば踏破可能、先の時間から2時間後に十勝協和に来るバスの時刻は12時20分、15時40分です。どちらの時間も狙っている便を逃すと1時間20分か2時間次の便まで待たなくてはいけませんから堀さんの慌てぶりもそう考えると納得できます。朝食は帯広出発前に食べたでしょうが昼食はどうされたのか記述がなく不明です。一番日の長い季節とはいえ遅くとも15時40分のバスに乗って帯広方面に戻られたのではと推測します。

もう一方の士幌線跡も同じく1990年6月の訪問と記されていますがバスに関しては「糠平の郵便局の前でバスを降りた。」という記述のみです。当時の午前中の帯広発糠平行きは7時10分(普通)7時55分(快速)11時20分(普通)の三便です。士幌線代替の快速便は広尾線のと違い音更市街地に入り込む(大通経由)か入り込まないか(新通経由)の違いでした。実際に廃線跡を歩こうとするなら朝7時台のどちらかに乗車されたのでしょうし、当時から郵便局の真ん前にバス停はないので実際にバスを降りたのは糠平営業所のバス停でしょう。

 

2.『ローカルバスの終点へ』

 

宮脇俊三さんが月刊誌『旅』に連載していたものをまとめた書籍です。この連載で宮脇さんは道内から三カ所選んで訪問しています。神恵内村川白(北海道中央バス)、北二号(別海町有バス)とともに十勝地方からは大津(十勝バス)が選ばれました。川白は道路の行き止まりではなくなったものの変わらず中央バスが、北二号は町有バスから別海町生活バス(地域生活バス)へと変わりつつも路線が今も残っていますが大津への十勝バスは廃止され今は豊頃町有バスが走っています。走っていますと言うものの他の二路線と違い、豊頃から大津へは夕方の二便、大津から豊頃へは朝二便と完全に住民の足と割り切ったダイヤになっており旅行者にとっては敷居がかなり高くなっています。

話を連載当時に戻して1988年6月8日、宮脇さんは帯広空港に降り立ちます。当時の十勝バスの地方路線の状況は浦幌〜留真〜本別の直通運行や利別〜池田の区間便の運行がそろそろ終わりの頃で十勝地方の支線バス最後の輝きの瞬間を宮脇さんは見たかもしれません。大津へは当時下り三便上り四便の運行で、途中の茂岩で一旦降りる行程を組んでいたようですが空港連絡バスは9時59分着で10時発の浦幌行きには残念ながら間に合いませんでした。ここの辺りの描写がさすが宮脇さんだなというくらいに面白いのでここでは紹介せず、できれば実際に読んでいただきたいと思います。ちなみに文中、茂岩行きは8番という表記がありますが正確には8番は茂岩からの到着便の乗り場で出発便は1番から出ていました。

10時発の茂岩を経由する浦幌行きには間に合いませんでしたが宮脇さんは幸運です。当時下り一便のみで3年後には廃止される11時発の茂岩行きに乗車されます。十勝バスのファンは大好きな黄色と青のブルーリボン塗装ですが宮脇さんには「美しいとは言いかねる外装」と酷評されます。酷評されてますが宮脇さんの不思議なところはネガティブなことを表現してもどこか愛情があるところです。ネガティブなことをネガティブなまま伝えることは簡単ですがネガティブなことをポジティブに表現できるのは本当に難しくさすがは宮脇さんといったところです。

11時発の茂岩行きに乗り茂岩で降りるのですが降車したバス停についての記述はありません。「11時55分、豊頃町の中心、茂岩に着いた。」という記述のみです。この後豊頃町役場へ行くので役場から近い茂岩待合で降りたと思うのですが茂岩待合の時刻にしては定刻より4分ほど早いです。もしかしたら浦幌方面と大津方面の分岐点である茂岩神社前で降りたかもしれませんし茂岩行き終点の茂岩営業所で降りたかもしれません。降りたバス停は特定できませんが宮脇さんは茂岩の市街に降りたち豊頃町役場に向かいます。そしてちょうど御飯時ということもあり役場近くのラーメン屋に行くのですがそこが「東京でこんなラーメンを供したなら店の前に列ができるだろう。」と書かれるくらいの店です。今もあるなら食べに行きたいものです。

茂岩から大津を目指す宮脇さんは13時40分茂岩営業所発の大津行き二便目に乗り込みます。バス停名は相変わらず茂岩のみですが「定刻13時40分、大津行きの十勝バスがやってきた。」という記述から大津に向かうバスを待っていたのは茂岩営業所のバス停だと推測します。なぜかというと茂岩神社前は13時38分、茂岩待合は同39分ということもあるのですが「つぎの『旭団地』という北欧型の新住宅」という記述もあるので茂岩市街で降りたバス停よりは確実に乗ったバス停は茂岩営業所のバス停と言えます。

宮脇さんのこの著書は本当に全編どの話も面白く十勝のバスが好きな方には是非とも大津の項だけでも良いので一度読んでいただきたいです。

 

3.『とかち戦後・昭和の記録写真集』

 

最後は帯広百年記念館が出したモノクロオンリーの写真集です。上の2冊はネット通販でお金さえ出せばなんとか購入できると思いますがこの写真集は百年記念館のHPを見ても売り切れたのかまだ売っているのかよく分かりません。帯広市図書館には置いてあると思います。大学図書館だと四館で所蔵しているのですが帯広畜産大学の図書館以外は文面から学外者の利用が厳しそうなところが多いように感じます。

ともあれ今回のテーマは文学です。写真集なのに文学というのもおかしな話でありますがなぜこの写真集を取り上げたのかというと29ページからの交通新時代という章の中にバスの項がありそこに添えられている文章がとても美しかったからです。以下に35ページの全文を紹介させていただきます。

 

乗合バス

 

「黄色いバスが来たよ」と、弟の声で4年生の姉について弟妹3人がバスに乗り込んだ。上美生から芽室の市街の床屋さんへ行くため、指折り数えて楽しみに待っていた日だった。

後ろの椅子に並んで座った。近所のおばさんたちが挨拶をしながら乗ってきた。女の車掌さんが、鞄を腰に下げて切符を売りに来る。鞄を覗くとお金がたくさん入っていた。切符を姉が大事にリュックにしまった。

運転手さんがエンジンをかけると油の臭いがした。車掌さんが「発車オーライ」と言うと、クラクションが鳴ってバスが動く。すれ違うトラックも馬車も小さく見える。道が悪くなるとバスも人も揺れて跳ねた。

帰りのバスには、荷物を背負ったおじさんたちが乗ってきて、街の話を大きな声で話しはじめる。エンジンの音を聞きながら眠くなってきた。車掌さんの声も遠くなった。

私が小学校の2年生だった。まだ終戦前の想い出の中で黄色いバスは揺れながら走っているのだが、そんな乗合バスの風景をいまも見ることができるのだろうか。

(文:音更 嶋田美智子さん)

 

この詩のような文章の中に今では見られない十勝バスが二つありまして一つは車掌さんでありもう一つは芽室から上美生への支線です。前回は北東部の町村の支線の話をしましたが芽室町の支線の話もそのうちできたらと予定しています。そして以上三作品に出てくる目的地(大樹、糠平、茂岩、芽室)にそれぞれ十勝バスの営業所があったのですが今残っているのは糠平営業所ことぬかびら源泉郷案内所のみとなりました。

道東バスの痕跡を探して 第1回 池北三町編

十勝管内の市町村史は鉄道に関する記述はかなりのボリュームがある一方、路線バスに関してはかなり濃淡が分かれます。十勝バスと道東バスが競合していたところではなく道東バス単独の路線があった町なら道東バスに関する記述があるのではないだろうか、という淡い期待を抱いて十勝北東部(池北三町)の町史にどんな記述があるか探してみましょう。

 

 

【1】陸別町

最初は陸別町です。陸別町史は鉄道の町なだけあって路線バスについてはアッサリとした1ページほどの記載です。全く触れられてないよりは遥かに良いのですが痕跡を辿るのには苦労します。これが足寄や本別であれば道東バスから十勝バスに会社が移っただけで帯広への路線は今に至るまで残りましたので苦労はしませんが陸別は一度バス路線が完全になくなってしまいましたのでかなり厳しいです。十勝バス70年史に路線の免許の情報はあっても起点終点しか分からず地図もないのでどこを通っていたかまでは分かりません。とりあえずはその陸別町史の1ページから痕跡を辿ってみましょう。

1930年旅館経営者井上六郎氏の立案で陸別から(津別町)本岐間で観光用の自動車を走らせようという動きがありこの時導入したフォードT型は実際は阿寒湖畔で営業を開始します。なぜ遠い阿寒湖畔でと思うでしょうが井上氏は阿寒湖畔でも旅館していてその一環で阿寒湖畔〜本岐〜陸別という観光ルートを夢見ていたのかもしれません。この井上氏は陸別町内でも1931年から陸別駅〜上斗満で定期の自動車運行を始めますが「道路も悪く、利用者も少ないので1年半ぐらいで止めた」と陸別町史に書かれています。これが陸別町における路線バスの始まりと言えるでしょう。

十勝バス70年史には陸別町内に三つの路線の免許があった旨が書かれています。足寄陸別間の陸別線。陸別鹿山間の上陸別線。最後の一つがトマム循環線とあります。

陸別線は国道242号線を足寄から陸別まで、上陸別線は道道51号津別陸別線沿いに陸別から鹿山(上陸別)まで走ったのかなと容易に想像することができます。問題はトマム循環線です。なぜなら陸別町にはトマムが二つあるからです。一方は斗満、もう一方は苫務で読みはどちらも「とまむ」です。なぜ同じ読みの隣り合ってる地域で漢字が違うのでしょう?

これは隣町の足寄町にヒントがあります。旧足寄駅から国道241号で阿寒湖のほうに向かうとすぐに両国橋という橋を渡ります。なぜ両国なのかというとそこがかつての釧路国(足寄村)と十勝国(西足寄町)の国境だったからです。同じトマムという読みながら当てる字が斗満と苫務で違ったのは国が違ったということです。斗満は十勝(足寄側)苫務は釧路(陸別側)だったのです。斗満はのちに陸別町に編入されて同じ町内に斗満と苫務が存在することになります。

また、昔の時刻表から道東バスと国鉄バスを考えるの回に載せた路線図を見ると陸別から川上や小利別を経て置戸に至る路線があるように見えるのですが陸別町史には記載がありません。鉄道並行路線にはなりますが川上とか日宗にまだ人が住んでいた頃なのでバス路線があってもおかしくはありません。置戸町の町史や創業記念北見バス20年とかに何か記載があれば良いのですが…(まだ確認していません)

ちなみに、道東バスの陸別車庫は東1条にあったそうです。町史に載っている昔の市街地図を見ると今の進藤モータースの辺りになります。また、陸別町の名誉のために付け加えるなら陸別町は鉄道があるからといって路線バスを無下に扱ったわけではなく道東バスや北見バスに対し然るべき赤字補助金を出していました。

最後に陸別町での北見バスは1957年に津別〜陸別間の運行が始まりますが10年後の1967年7月5日に陸別〜(津別町)二又間が廃止されふるさと銀河線代替バスの運行まで陸別町から北見バスは一時撤退となります。津別から二又間は津別町営バスが代替となりましたが二又から鹿山の津別陸別町境間に代替手段は確保されませんでした。

 

【2】足寄町

続いて足寄町です。先にチラッと触れましたが今の足寄町は十勝側の西足寄町と釧路側の足寄村が合併してできた町になります。一時は日本一広い市町村だった足寄町。町内で完結する支線的なバス路線も十勝地方では多いほうになります。

幹線は足寄から道東バスの本別、陸別線。1929年9月19日の十勝毎日新聞に小泉和雄氏の運行する本別駅前〜仙美里〜足寄太〜愛冠小学校の路線がこのほど自動車営業開始と報道されています。拓殖バスの路線の前身になる足寄駅前〜芽登〜上士幌市街間はこれより先の1927年に阿部某氏が6人乗りシボレーで運行を始めるのでこれが足寄における最初の乗合自動車と言えそうで拓殖バスの帯広直通足寄急行線は1959年10月20日から運行されます。

足寄からの支線は西へ拓殖バスの足寄〜芽登〜喜登牛〜奥芽登が1957年10月30日から運行、東へ道東バスの平和、稲牛、上螺湾(1959年10月10日から)、茂足寄(1952年6月5日から)の各線。稲牛線は十勝バス70年史にのみ、上螺湾線は足寄町史にのみ掲載されてます。稲牛と上螺湾は山を一つ挟んでいるので同一の路線とは考えにくく両路線とも存在したと思うのですが他に資料がないかもう少し探してみたいところです。本別足寄間は本別町史によると足寄営業所の経営線と書かれています。

また、足寄といえば阿寒国立公園への観光客輸送の玄関口ですが国立公園指定の2年後の1936年の統計では足寄から阿寒湖畔へ156人、阿寒湖畔から足寄へ110人の貸切輸送があったとのことです。茂足寄線があったからこそのちに道東バスが阿寒湖に進出できたと言える一方で阿寒湖への輸送は足寄駅からの路線でじゅうぶんと言わんばかりの態度で帯広発路線への対応が鈍く十勝バスの阿寒湖進出の報にひどく驚いたとも言えるでしょうか?

帯広阿寒湖直通線は道東バスが1954年6月1日から、帯広乗合(今の十勝バス)は1月遅れて1954年7月1日から運行を始めます。道東バスは拠点のある地の利を生かし1959年の6月から阿寒湖畔〜雌阿寒登山口〜野中温泉〜オンネトーや雌阿寒登山口〜オンネトー区間輸送も始めます。道東バスは各営業所ごとに隣どうしの各町村間や中心部から集落へといった北海道にしては比較的短距離の輸送を好んでいた社風だったのも十勝の他社とは大きく違うところかもしれません。そんな道東バスの大きな拠点だった足寄町の支線は十勝地方では長く残ったほうだと言えるでしょう。

 

【3】本別町

最後に本別町です。幹線としては1928年に池田本別間、1929年に本別足寄間で乗合自動車の運行が始まります。本別からの支線は四路線で本別町中心部から美里別川の両岸を西へ向かう二路線(上美里別への路線は1951年2月認可)と本別大坂(浦幌坂)を登り浦幌町に入り坂の上で浦幌川の上流である川上を目指す路線と中流の留真を目指す路線とに分かれました。本別から留真への路線は最初本別上浦幌線として1949年11月に認可、活平までは1951年12月28日認可で1952年5月13日に運行が開始されます。観音坂から先の留真までは1955年4月14日認可で7月29日運行開始です。また留真から南は十勝バス浦幌営業所のエリアになり留真は乗り継ぎの拠点になったようで留真駅逓〜浦幌駅前間は1929年6月大津の横野勇氏によって運行を始めます。留真線はのちに道東バスと十勝バスが合併してからは本別留真間と留真浦幌間、本別浦幌間直通の三系統運行されるという地方支線にしてはなかなかの盛況ぶりでした。本別上美里別間は1983年3月までに留真浦幌間は1987年までに順次廃止されました。しかし本別留真間は十勝バス最後の支線として2011年まで運行されました。

f:id:Zentokachinoriai:20180330171415j:plain

(ブレてますが観音坂に挑む194号車)

 

f:id:Zentokachinoriai:20180330171745j:plain

f:id:Zentokachinoriai:20180330170624j:plain

(在りし日の終点留真バス停)

 

本別にも道東バスの営業所があったと本別町史に書かれていますが場所の特定には至りませんでした。駅前に案内所はあったようですが車庫も併設されていたのか別の場所に車庫があったのかなど詳しくは不明です。

足寄から芽登間の拓殖バスが一部本別町の町域にかかっていました。かつて新生(あらなり)小学校バス停があった辺りです。新生小学校は本別町立ながら隣接する足寄町中矢地区(戦後の帰農隊の入植地で中山少佐の中と矢本大尉の矢を取った地名)の児童の委託通学を受け入れました。また、本別からは美蘭別、佐倉を経由して士幌まで行く国鉄バスも出ていました。以下、本別士幌間の国鉄バスを除いた陸別・足寄・本別の大まかなバス路線図です。

 

 

f:id:Zentokachinoriai:20180329113520j:plain

(赤実線は道東バス、赤破線は拓殖バス、黄実線は十勝バス、緑実線は北見バス、青実線は阿寒バスと北見バス)

 

その他のバスとしては陸別町足寄町国鉄バスの招致に熱心だったという記載が両町史にあります。陸別町では北見〜津別〜陸別〜置戸〜北見という大循環線を招致したかったようで、足寄村(当時)では国鉄の他道東バスの足寄〜茂足寄間の運行が始まる前に村営バスの自主運行を行おうともしていました。

停名地名不一致の謎 第3回 十勝農学校と西5条住宅前の関係

帯広市街南部の西5条通沿いに十勝バスの1系統や60系統で通る西5条28丁目というバス停があります。近くの四中前や西5条30丁目、西5条南橋はずっとバス停名が変わっていませんが西5条28丁目だけは数年前まで西5条住宅前というバス停名が長く使われていました。西5条通沿いの十勝バスのバス停で丁目ではないバス停名は過去に北から順に市民会館前、市役所前、記念碑前、大谷校前(今の感覚だと大谷高前だと思うのですが当時の時刻表では校の字でした)、明星校前、四星堂前、四中前、西5条住宅前、西5条南橋、南8線です。南8線だけ異色ですがこれは前々回

zentokachinoriai.hatenablog.jp

の最後のほうをご参照ください。他は学校や施設、橋の名前で丁目でなくても分かりやすいです。四星堂前は今の西5条24丁目でバス停の前に四星堂という名前のお店があったことが由来です。

それにしても西5条住宅前。西5条通沿いにあるので西5条と付くのは理解できますが住宅前。何の住宅があったというでしょう?当時のことを運転手さんに聞くと「昔はあの辺にしか住宅がなかったからだ」と言うのですが、たとえそうでも大通なんかはずっと丁目のバス停が市街地外縁の南31丁目まで続いたわけで隣の西5条30丁目も丁目のバス停ですしここだけ住宅前になったことの理由としてはちょっと弱い気がします。西5条28丁目ではなく西5条住宅前にしなければならない理由があったのでしょうか?

 

困った時の地名頼みといきたいところですが似平十勝協和の時と違い市街地の住宅前ではヒントは少なく頼りになりそうにもないですが頑張ってみましょう!これを言うのは3回目になりますが地名が残りやすい世界三大物件は駅、学校、郵便局。近くの郵便局は前回出てきた西七条簡易郵便局なので今回はあてになりません。残るは駅と学校。

近くの駅は帯広駅、なんていうのは21世紀の話。ここは昔の話のブログです。前回チラッと触れましたがここの近くにかつて十勝鉄道という軽便鉄道が走っていました。今でも入手しやすいJTBのCanBooks鉄道廃線跡を歩くIIや日本鉄道旅行歴史地図帳、昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)などをもとに考えてみましょう。

 

   

 

 

消えた轍も参考にしたかったのですが実家にあるのか手元になかったので今回は参考にできず。結構前に新装されてたことも全く知りませんでした。

話を戻して十勝鉄道。帯広大通駅から出発した十勝鉄道は新帯広〜女学校前を経て四中前〜工場前へと至ります。と言いたいのですが書物によって女学校前や四中前の駅があったりなかったり女学校前がなくて明星校前があったり学校前があったり。せっかくなので出典毎に帯広大通・帯広の次の駅である新帯広から工場前を経て川西までがどうなってるかまとめてみるところから始めてみます。

 

(1)鉄道ピクトリアル1958年8月号 知られざる私鉄(35ページの路線図)

新帯広〜学校前〜工場前〜農学校前〜稲田〜川西

(ただし36ページに路線図にはない四中前に関し「4線式で駅員無配置の四中前を経て工場前へ」という乗車記あり)

(2)鉄道廃線跡を歩くⅡ(190ページの停車場一覧)

新帯広〜女学校前〜工場前〜農学校前〜十勝稲田〜川西

十勝稲田は1932年8月11日、女学校前と農学校前は1935年12月1日開業

(3)日本鉄道旅行歴史地図帳(26ページの路線図)

新帯広〜明星校前〜四中前〜工場前〜(信号所)〜農学校前〜十勝稲田〜川西

 (4)昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)(26ページの路線図)

帯広大通〜中学校前〜工場前

(新帯広は表記なし。ただし21〜22ページでは中学校前ではなく「次の四中前というあたりは落ち着いた感じの田園地帯である」という乗車記あり)

 

新帯広駅と工場前駅との間にありそうな駅を全て書き出すと学校前駅、女学校前駅、明星校前駅、中学校前駅、四中前駅ですがこれらが全てあったら大変です。間違いないのは新帯広駅と工場前駅〜川西駅の間で工場前より北側の市街地の駅は見事にどれも揃いません。困ります。一つ一つ丁寧に見ていくしかありません。

新帯広駅は西4条にあったそうで1924年2月開業(帯広大通方面は1929年2月)今のバス停でいうと第一病院前の付近、女学校前駅は西6条に1935年12月開業、西5条通の西側で西南大通の南側の今でも機関車と客車が静態保存されている付近でしょう。

www.city.obihiro.hokkaido.jp

女学校前駅は今のバス停でいうとイオン帯広店前、時代を遡り冒頭の西5条のバス停一覧でいうところの大谷校前になり後に(時期不明)明星校前駅へと改称します。帯広大谷女学校は1923年開校。今の帯広大谷高校は1977年に帯広市内の西19条へ移転します。一方の明星小学校は1935年4月開校。帯広市図書館HPで郷土資料の欄から閲覧できる1959年の帯広市都市計画図によると帯広大通駅と工場前駅の間の西6条南23丁目付近に唯一駅の記号がある場所が次の四中前駅でしょうか?バス停に同名の四中前がありますが西6条南23丁目の位置が正しいのなら最寄りバス停は四星堂前、今の西5条24丁目になります。四中前と中学校前は同じだろうと思えますが鉄道ピクトリアル1958年8月号や昭和29年夏北海道私鉄巡り(下)の学校前駅がどこを指すのか気になります。学校前駅が四中前駅なのでしょうか?それとも女学校前駅か明星校前駅が学校前駅なのでしょうか?

帯広市立第四中学校は戦後の1951年開校。当然ですが1923年の帯広市街全図(これも帯広市図書館HPから閲覧できます)には第四中学校や明星小学校の記載はありません。しかしながらこの図には開校したての大谷女学校の他にもう一校、学校の記載があります。それは今の北海道帯広農業高等学校にあたる十勝農学校です。

 

当時の十勝農学校周辺の地図は

zentokachinoriai.hatenablog.jp

の回にも載せてます。十勝農学校(正式には十勝農業学校ですがここでは農学校と書かせていただきます)は1923年12月13日帯広市西4条南23丁目に校舎竣工。ちょうど今の明星小学校と同じ場所で十勝鉄道の静態保存と同様に帯広市の史跡にもなっています。

www.city.obihiro.hokkaido.jp

1935年7月29日に今帯広農業高校のある当時の川西村へ移転。十勝鉄道の川西村移転後の(新)農学校前駅は書類上で1935年12月1日開業と移転と4ヶ月ほどずれています。この年の4月に明星小学校が開校してるのでもしかしたら3ヶ月ほど小学校と農学校の同居期間があったのかもしれません。十勝鉄道の開業が1924年。農学校の敷地は南23丁目から南26丁目までと広く今の帯広第四中の敷地まで入るので(初代)農学校前駅が後の四中前駅となった可能性があるかもしれません。学校前はどこと特定できませんが学校最寄り駅の多いなか、分かりやすく区別するために明星校前を小学校前、四中前を中学校前などと呼んでいた可能性があるかもしれません。

 

さて十勝鉄道も謎が多いですが本題は西5条住宅前です。最初は農学校が川西村に移転した時、移転前の農学校職員住宅と移転後の農学校職員住宅を区別するために移転前を西5条住宅前、移転後の川西村稲田を農高住宅前としたのだろうかと考えていました。しかし西5条住宅前は南26丁目より更に南の南28丁目です。農学校の敷地ではありませんから南28丁目付近が農学校の職員住宅であった可能性は低そうです。

では住宅とは何か?帯広市図書館で見られる昔の地図の中に発行年不詳の帯広市及近郊詳図と帯広市全図があります。その二つともに西5条から十勝鉄道の線路までの間の南26から28丁目に学園住宅地という表記があります。前回を読んでいただいた方ならご存知でしょうがこの辺りの宅地開発は十勝鉄道の東側は1931年より前に、西側は1931年より後1933年までに計画されていました。計画であって実行は戦後になりますが西5条の農学校跡地南側付近に住宅分譲地を作る計画がありそこを農学校や四中にちなんで学園住宅地と名付けたのは間違いなさそうです。一つの可能性として西5条学園住宅地前、これを縮めて西5条住宅前というバス停にした説をあげます。

 

次にもう一つの可能性を。今では立派な幹線道路の西5条通ですが昔の地図を見て違和感を感じなかったでしょうか?発行年のはっきりしている地図はどれも四中より南側に西5条通が伸びていません。これは航空写真を見ても同じで地図のミスではなく本当に西5条通が南27丁目以南に通ってなかったと言えるでしょう。昔の地図や航空写真から判断すると西5条通が四中より南の南27丁目から南34丁目の南8線まで区間で西5条南橋で売買川を渡って全通するのは1954年以降1959年までの間と言えそうです。

ではそれ以前はどうやって売買川を渡っていたのかというと3つの道路がありました。広尾街道大通の南橋、西2条通の南線橋、最後の一つは十勝鉄道沿いの細い市道に架かる鉄平橋です。稲田のイトーヨーカドー帯広店の北側にあるみどり食堂の東側にある細い道から入った先にある橋が鉄平橋でその先のかつての谷乃湯(今の西6条27丁目バス停)の前で四中の南側に出る通り。これが第3のルートです。

 

 

大通の南橋や西2条の南線橋と違い西5条にも南橋がある現代では用がないとわざわざ通る人もいないでしょうがかつては鉄平橋の通りが下帯広と(川西)下稲田を結ぶ第3のルートだったのです。さてその鉄平橋のすぐ北側には西5条住宅地がどうのという話が出る前から住宅が集まって建つ一角がありました。西5条で売買川を渡れない以上、大通以外で売買川を渡り稲田の日甜工場や住宅を目指そうとすると鉄平橋を通るバス路線がもしかしたらあったかもしれません。鉄平橋の通りを南7線道路までくるバス路線はありましたし西2条の南線橋は道東バスのニッテン線が通りました。

そんな時代にこの鉄平橋の通りの学園住宅地西側にバス停を置くとしたら学園住宅地前か学園住宅前というバス停になるでしょう。のちに幅員の広い西5条通に南橋が完成しバス路線も西5条を経由する便ができると西5条の学園住宅地のバス停はどうなるでしょうか?おそらく西5条学園住宅地前か西5条学園住宅前、ちょっと長いのでもしかしたら学園の文字は省いてしまうかもしれません。

 

どちらにしても学園住宅地が由来だと考えますが市内南部において西5条が昔から国道の次の幹線道路だったわけではなく、前回の十勝バスの東官舎線もそうした理由で四中前から南8線〜稲田橋〜日甜住宅を真っ直ぐ目指さずに法広寺〜動物園〜(墓地南側)〜東官舎〜稲田〜日甜住宅という回り道の経路を選択したわけです。

帯広のズレを楽しむ会 第2回


zentokachinoriai.hatenablog.jp

 

の続きです。前回は東部と西部にあるズレでしたので今回は南部にあるズレをご紹介します。

帯広駅バスターミナルから十勝バスの70系統で市内南部の大空団地へと向かう路線バスに乗ると四中前から四中グラウンドと西七条簡易郵便局の間の26丁目道路を西へ進みます。西10条27丁目のバス停を過ぎると法広寺(ほうこうじ)の前までちょっと北側に遠回りしてから公園東通を南へ進みます。(下地図参照)

なお、正式には法廣寺ですがバス停としては法広寺(現在は動物園前)だったので以下このブログでは法広寺と書かせていただきます。

 

 

 

真っ直ぐ26丁目道路を作れば良かったのにと思うところですがなぜ北側の道路を通るのでしょう?実はこのちょっと北側の道路は殖民地区画の南6線道路です。1931年の帯広の市街地地図を見ると今の四中がある十勝鉄道の線路東側では住宅のための区画割が行われていますが法広寺付近の線路西側はまだ手付かずで26丁目道路と南6線道路が一つの真っ直ぐな道路のように描かれています。その2年後の1933年の地図では十勝鉄道西側が向陽台分譲地と名付けられ現在のバス路線と同じく遠回りする道路がメインルートのように描かれています。なぜこの26丁目道路と南6線道路は前回の南2線から南4線のように滑らかにズレを調整せずシケイン状にガクッと急激にズレを合わせるような道路になったのでしょう?

一つ目の理由として地形があげられます。法広寺の辺りの標高は55m、法広寺から200mほど西にあるおびひろ動物園の標高は66mとこの付近で段丘のようになっています。法広寺から200mほど南側を走る道道151号幕別帯広芽室線線は比較的最近できた道路ですがこちらは段丘を掘割状のトンネルでやり過ごします。掘割状の公南弥生トンネルは帯広市唯一のトンネルとも言われおり路線バスでは十勝バスの73系統や79系統でトンネル内を通過できます。地形的に西4号より西側で緩やかにズレを調整するには掘割を作らなければ難しいでしょう。西4号より東なら緩やかに調整できたでしょうが市街地区画にこだわっていたのか西10条までは26丁目道路を真っ直ぐ作ってしまい西10条から西12条の短い間で道路を斜めにして調整してしまうと区画に無駄が多く生じてしまい出来なかったのだと思います。

地形以外に理由はあるか?と言いますともう一つ大きな理由があります。それはこの法広寺の南西側西4号(公園東通)以西南6線以南がかつて帯広市ではなく川西村だったからです。帯広市としては南26丁目道路として西進する道路と川西村としては南6線道路として段丘を下りながら東進する道路。南26丁目道路と南6線道路を直通するような交通が主流でなかったこともあり滑らかさが重要視されることもなく今の道路の線形が残ったと言えるでしょう。

 

現在のバス路線は法広寺から西4号(公園東通)を南へ走る70系統大空団地線がメインですが、大空団地ができる前は法広寺からそのまま坂を西へと登り(旧)動物園〜東官舎〜別府団地〜稲田〜日甜住宅へと至る東官舎線が走っていました。当時の時刻表の路線図を見ると十勝バスの東官舎線は国鉄バスの通った道道八千代帯広線ではなく一本東の道路を走っていたように見えます。法広寺から動物園、緑ヶ丘墓地の南側を通り今の稲田バス停のある旧稲田消防署(正確には帯広市消防署南出張所)まで今の西14条と西15条の間(かつての南町東1条と南町東2条の間)の道路を通るように推測されます。この道路、今となってはただの住宅街の間の道路ですが昔の地図を見ると道道八千代帯広線の次にはっきりと描かれています。地図ではなく航空写真になりますがこちらをご参照ください。稲田バス停から緑ヶ丘墓地〜動物園〜法広寺西側〜(旧)刑務所〜記念碑(現在の西5条交番前交差点)というルートは道道の抜け道のような存在だったようです。後に十勝バスも国鉄バスと同じ道道経由の路線を開設する時に別府団地のバス停は置かないことが条件となったのか、JR北海道バスの十勝線が廃止されるまで東官舎〜十勝共栄(今の南町中学校入口)の間の道道沿いに十勝バスのバス停は置かれませんでした。

 

 f:id:Zentokachinoriai:20180318140252j:plain

1960年代の帯広市内南部のバス路線図は上のように推定します。黄色は十勝バス。青色は国鉄バスです。動物園から稲田までの区間で十勝バスが道道を通らなかった確証があれば推定ではなく確定と言えますが現段階では推定です。動物園から稲田までの区間以外に間違いはないと思います。路線図では分かりにくいのですが、市内南部を西5条から帯広駅前に向かう路線で記念碑から真っ直ぐ市役所を経由するのは循環線くらいでした。東官舎線はどこを通ったのかというと記念碑から大通16丁目、12丁目、西1条9丁目を通り帯広駅前に向かいました。駅南区画整理や高架駅完成後の今となっては記念碑前から大通16丁目を経由するのを不思議に思う方が多いでしょうが畜大線や八千代線は81.11改正までこの駅前〜大通16〜記念碑という経路で走っていました。

西1条9丁目のバス停も世代によって思い出す店が色々違って面白そうです。今となってはますやパンの向かいですがインデアンカレーの隣であったり帯広劇場の前であったり。記録に残りにくい路線バスだからこそバスファンはしっかりと記録していきたいものです。