帯広広尾間道路のこと(2)広尾道路

せっかくできた広尾街道でしたが大河川沿いではなかったのが災いしたのか入植者が増えても街道沿いの大樹帯広間には大きな市街地ができることもなくあまり利用者は増えませんでした。帯広から南十勝へ向かった多数の入植者たちは結局札内川に沿って移動しました。そこで要望されたのが札内川に近い所を通る広尾街道とは別の新道路広尾道路(後の地方費道帯広浦河線)でした。

 

新道区間は出典によって1901年(明治34年)着工と1914年(大正3年)着工とで、また全線開通も1914年(大正3年)と1916年(大正5年)とで分かれますが川西、幸震、上札内、サラベツ(元更別)、坂下、大樹といった主要市街地や駅逓を経由する広尾道路が開通します。

 帯広市街の大通から南下するのは広尾街道と同じで一里標のある大通南橋を過ぎた所で広尾街道と分かれます。二里標を過ぎ神社のある5号と渡船のあった6号の間で川西基線に合わせる今の国道236号と同じルートで川西市街地の9号道路に向かいます。川西市街で札内川渡河に挑むため東に折れますが当時はまだ曲線半径の緩い今の道路はありませんので十字路を折れ東進。当時から札内川の土囲が高かったのか道路はカーブを繰り返して橋に辿り着きます。橋を渡った札内川の東岸は今の愛国市街地で幸震基線を今の国道236号と同様に南下します。

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(この地図は国土地理院発行5万分の1地形図帯廣の一部を利用しています)

 

中札内市街の39号の北側(バス停でいう中札内南4丁目)までは今の国道とほぼ同じですが開通当初から1921年(大正10年)まではここから今でも残る斜線道路を南西に入るより札内川に近いルートを通ります。

西2線道路を使って45号まで南下。今度は南東に進路を変え今の道道55号のルートに戻り上札内へ。サラベツ駅逓を過ぎ難所の無願坂を越えると坂下、尾田を経て大樹市街地で広尾街道に合流。大樹以南は広尾街道と同じ道を広尾まで行きます。

 今はもうありませんが十勝バスに上札内経由便が走っていた頃、今の道道沿いに「大樹新通り」というバス停がありました。何に対して新しい通りかというともちろん広尾街道に対してです。余談ですが大樹市街は十勝バスにしては珍しく〇〇通というバス停に送り仮名の「り」の字が付きます。「大樹新通り」や「大樹2条通り」バス停も今はなくなってしまいましたが国道沿いの待合小屋完成で「2条通り」から移設した今の「(大樹)西本通り」にも「り」がつく伝統は残っています。

 

さて、遅くとも1916年(大正5年)までにこの広尾道路は完成しますがいつから広尾道路を路線バスが走ったのか?たいていの方は十勝バスのHPを見て1926年(大正15年)3月1日と言うのでしょうが3月1日に昔の舗装も除雪もされてない道路を走れるのかというと歴史的小雪ならともかくちょっと厳しいでしょう。新中札内村史によると処女運行は雪解けを待って1926年4月10日になったそうです。これで一件落着かというとそうもいかず大樹町HPには1919年(大正8年)広尾・帯広間乗合自動車創業と書かれています。これは栄定男氏によるものでダッジブラザーズの幌型車で運賃は広尾帯広間で15円ないし20円だったそうです。この運賃の揺らぎは気になりますが今でいう幅運賃制のようなものなのでしょうか?

奥田太郎氏の奥田自動車部、大津の名畑仁太郎氏の大印自動車合資会社など十勝自動車合資会社以前に広尾〜帯広間を運行していた業者はいたと十勝バス70年史にも書かれていますので1919年(大正8年)が南十勝における乗合自動車の始まりであり、十勝自動車合資会社から連なる十勝バスとしては1926年(大正15年)からが広尾線の始まりでもあると言えるでしょう。