更別経由の路線バス

尾道路を走った広尾帯広間乗合自動車から現在の十勝バス広尾線に至るまでどのような乗合バス路線が広尾町帯広市の間にあったか?有名なところだとここでも既に取り上げてますが十勝バスの帯広〜上札内〜大樹・広尾行き、大樹から海岸沿いを目指した国鉄バスの路線群、ちょっとマニアックなものだと大正から東西に伸びた小路線やひろおサンタ号の遥か前に豊似から上豊似間を走った十勝バスの支線などなど。

そんななかで今回は帯広と広尾の中間にある更別村を走った路線バスについて書きます。

 

まず最初の更別村を通る路線バスは前述の通り広尾帯広間を走った路線バスでした。正確に書けば十勝乗合以前に広尾帯広間を走った栄定男から始まり奧田自動車部や金線自動車、大印自動車の路線バスの経路が不明確なのですが広尾街道は早くに廃道化し他に道路がない以上、上札内経由の広尾道路を走行したと考えられます。

 

1925年の大正〜大樹間のバス路線図

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まだ国鉄広尾線もなく広尾帯広間の路線バスしかないなのでシンプルです。今の更別村としては村の南端更南地域をかすめるような感じでバス路線が走るのみです。

 

次に1934年支線とも枝線とも言うべきバス路線が開設されます。それが下図緑破線の路線です。

 

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更別村史によるとこの路線バスは中札内から38号道路(今の道道中札内インター線)、更別村の東18号道路を通り更別駅ができるまで更別一大きな市街地だった旭を経由して更別駅前市街を通らずそのまま東18号道路を上更別駅前に車庫まで建てて繋ぎました。国道が更別市街北側を通る前はこの旭経由の38号〜東18号〜旭市街〜南1線が中札内と更別を結ぶメインルートでした。話を戻して中札内〜上更別のバス路線の権利を得たのは古山石松という人物ですが実際は中田竹次郎という方が営業します。中田氏は糠内自動車の代表者なので後々の時代でいうと道東バス系列となります。

なぜ、古山氏や中田氏が更別駅周辺ではなく上更別への路線を申請したかというと当時の更別駅周辺は水捌けがかなり悪くあまり開墾に適した土地ではなかったそうで、一方上更別市街は国鉄広尾線の駅ができたことで奥糠内(駒畠)への移住者の玄関口となり1935年には更別市街の戸数を上回るほど繁栄していたからと言えるでしょう。鉄道が来るのがもう少し遅かったら糠内自動車は中札内〜旭〜上更別〜奥糠内(駒畠)、止若〜糠内〜奥糠内〜忠類〜大樹なんていう一大路線網を築いていたかもしれません。

しかし、この中札内〜上更別線は鉄道が既に開通していたこともあり予定の30人乗り自動車からフォードV8普通自動車に変えたものの利用が伸び悩みわずか1年間で運休となります。

 

1956年になると国鉄バスの大樹〜更別〜大正〜東富士〜帯広線(南十勝本線)が運行を開始します。(水色破線部)

 

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国鉄バスのファンの方のサイトと開業の日付が違うのですが更別村史によると1956年12月29日に帯広〜大樹の全区間ではなく大正〜更別〜駒畠で2往復運行。「この時の運行開始は、住民からのやんやの要望で始まった臨時の暫定的なもの。」と書かれています。帯広〜大樹の「本格運行」は1957年7月18日からだそうです。帯広〜大樹と帯広〜駒畠が共に1往復ずつ。開業を記念して更別村では帯広市内で記念式典まで開催しましたが1960年の冬には早くも大和以南の更別方面が休止になってしまいます。十勝バス大和線の終点に木造のバス停小屋があって十勝バスとしてはバス停の反対側で向きがおかしいと思ってましたが元が国鉄のバス停だったとなると納得です。

 

そして1962年6月1日十勝バスが現在の国道236号にあたる更別バイパス経由の広尾線新線を開業します。(黄色実線部)

 

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こちらは今でも走っているのでそう変わりないように思えますが運行当初更別市街には入り込まず国道を直通していたそうです。更別市街を通る経路は1966年12月24日認可、1967年1月2日運行開始と書かれています。1962年の運行開始時更別経由は3往復でしたが1970年には8往復と元の本線である上札内経由を上回る便数になります。

 

その後国鉄広尾線代替バスを始めたり上札内経由が廃止になったりもしますが、十勝バスにとっては更別発帯広市内高校行きを出すなど今でも重要なエリアであるのに変わりはありません。