十勝のバスと文学

鉄道ならいざ知らず十勝地方の路線バスが出てくる書籍はどれくらいあるのでしょう?世の全ての書籍を知っているわけではないですが知っているものから三冊ご紹介します。

 

1.『北海道 鉄道跡を紀行する』

 

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の回でもチラッと触れた堀淳一さんの1991年の本です。廃線跡がメインなのでバスの描写は極小ですがどこからどこまで乗ったかくらいは出てきます。十勝地方からは大樹から忠類、更別にかけての広尾線跡と糠平以北の士幌線跡、新得から南新得と清水鹿追間の北海道拓殖鉄道と河西鉄道の立体交差跡の三つの路線が取り上げられていますが、拓鉄跡のエピソードにはバス移動についてのエピソードが出てきません。なので広尾線跡と士幌線跡について見てみましょう。

広尾線跡の回ではまず「帯広からバスに乗った。上札内経由だったので大樹27号で降りる。」とあります。訪問したのは1990年6月と書かれていますがこの当時上札内経由は日曜祭日運休便はなく全日4往復の運行です。同じ日に全行程を回っているようなので午後の二便(帯広15時発と17時半発)を利用したとは考えにくくよって堀さんが実際に乗車したのは帯広7時発か10時発だと考えられます。大樹27号着が8時18分か11時18分頃。歴舟川に架かる橋を眺め大樹市街まで歩き今度は忠類へ向かいます。坂はあっても下り坂なので10時か13時頃までには西本通りに着くでしょう。西本通りからはちょうど(快速)10時7分、(普通)13時22分の便があり忠類には10時19分、13時33分に着きます。この当時快速は既に快速運転を取り止めていますので快速表記は大樹市街の経由地の違いと広尾市街の広尾(旧駅)止まりか終点の営業所まで行くかの違いを示すのみになっています。時刻表の所要時間は普通のほうが1分早いですが余裕時分の取り方の違いで快速と普通で実際の所要時分に違いはないと思います。

大樹駅跡に興味を示さなかった堀さんは忠類駅跡には大変ご満悦で足取りも軽やかに、かどうかは分かりませんが徒歩で忠類坂に挑みます。最後かなり急いでバス停まで向かっていますがおそらく2時間あれば踏破可能、先の時間から2時間後に十勝協和に来るバスの時刻は12時20分、15時40分です。どちらの時間も狙っている便を逃すと1時間20分か2時間次の便まで待たなくてはいけませんから堀さんの慌てぶりもそう考えると納得できます。朝食は帯広出発前に食べたでしょうが昼食はどうされたのか記述がなく不明です。一番日の長い季節とはいえ遅くとも15時40分のバスに乗って帯広方面に戻られたのではと推測します。

もう一方の士幌線跡も同じく1990年6月の訪問と記されていますがバスに関しては「糠平の郵便局の前でバスを降りた。」という記述のみです。当時の午前中の帯広発糠平行きは7時10分(普通)7時55分(快速)11時20分(普通)の三便です。士幌線代替の快速便は広尾線のと違い音更市街地に入り込む(大通経由)か入り込まないか(新通経由)の違いでした。実際に廃線跡を歩こうとするなら朝7時台のどちらかに乗車されたのでしょうし、当時から郵便局の真ん前にバス停はないので実際にバスを降りたのは糠平営業所のバス停でしょう。

 

2.『ローカルバスの終点へ』

 

宮脇俊三さんが月刊誌『旅』に連載していたものをまとめた書籍です。この連載で宮脇さんは道内から三カ所選んで訪問しています。神恵内村川白(北海道中央バス)、北二号(別海町有バス)とともに十勝地方からは大津(十勝バス)が選ばれました。川白は道路の行き止まりではなくなったものの変わらず中央バスが、北二号は町有バスから別海町生活バス(地域生活バス)へと変わりつつも路線が今も残っていますが大津への十勝バスは廃止され今は豊頃町有バスが走っています。走っていますと言うものの他の二路線と違い、豊頃から大津へは夕方の二便、大津から豊頃へは朝二便と完全に住民の足と割り切ったダイヤになっており旅行者にとっては敷居がかなり高くなっています。

話を連載当時に戻して1988年6月8日、宮脇さんは帯広空港に降り立ちます。当時の十勝バスの地方路線の状況は浦幌〜留真〜本別の直通運行や利別〜池田の区間便の運行がそろそろ終わりの頃で十勝地方の支線バス最後の輝きの瞬間を宮脇さんは見たかもしれません。大津へは当時下り三便上り四便の運行で、途中の茂岩で一旦降りる行程を組んでいたようですが空港連絡バスは9時59分着で10時発の浦幌行きには残念ながら間に合いませんでした。ここの辺りの描写がさすが宮脇さんだなというくらいに面白いのでここでは紹介せず、できれば実際に読んでいただきたいと思います。ちなみに文中、茂岩行きは8番という表記がありますが正確には8番は茂岩からの到着便の乗り場で出発便は1番から出ていました。

10時発の茂岩を経由する浦幌行きには間に合いませんでしたが宮脇さんは幸運です。当時下り一便のみで3年後には廃止される11時発の茂岩行きに乗車されます。十勝バスのファンは大好きな黄色と青のブルーリボン塗装ですが宮脇さんには「美しいとは言いかねる外装」と酷評されます。酷評されてますが宮脇さんの不思議なところはネガティブなことを表現してもどこか愛情があるところです。ネガティブなことをネガティブなまま伝えることは簡単ですがネガティブなことをポジティブに表現できるのは本当に難しくさすがは宮脇さんといったところです。

11時発の茂岩行きに乗り茂岩で降りるのですが降車したバス停についての記述はありません。「11時55分、豊頃町の中心、茂岩に着いた。」という記述のみです。この後豊頃町役場へ行くので役場から近い茂岩待合で降りたと思うのですが茂岩待合の時刻にしては定刻より4分ほど早いです。もしかしたら浦幌方面と大津方面の分岐点である茂岩神社前で降りたかもしれませんし茂岩行き終点の茂岩営業所で降りたかもしれません。降りたバス停は特定できませんが宮脇さんは茂岩の市街に降りたち豊頃町役場に向かいます。そしてちょうど御飯時ということもあり役場近くのラーメン屋に行くのですがそこが「東京でこんなラーメンを供したなら店の前に列ができるだろう。」と書かれるくらいの店です。今もあるなら食べに行きたいものです。

茂岩から大津を目指す宮脇さんは13時40分茂岩営業所発の大津行き二便目に乗り込みます。バス停名は相変わらず茂岩のみですが「定刻13時40分、大津行きの十勝バスがやってきた。」という記述から大津に向かうバスを待っていたのは茂岩営業所のバス停だと推測します。なぜかというと茂岩神社前は13時38分、茂岩待合は同39分ということもあるのですが「つぎの『旭団地』という北欧型の新住宅」という記述もあるので茂岩市街で降りたバス停よりは確実に乗ったバス停は茂岩営業所のバス停と言えます。

宮脇さんのこの著書は本当に全編どの話も面白く十勝のバスが好きな方には是非とも大津の項だけでも良いので一度読んでいただきたいです。

 

3.『とかち戦後・昭和の記録写真集』

 

最後は帯広百年記念館が出したモノクロオンリーの写真集です。上の2冊はネット通販でお金さえ出せばなんとか購入できると思いますがこの写真集は百年記念館のHPを見ても売り切れたのかまだ売っているのかよく分かりません。帯広市図書館には置いてあると思います。大学図書館だと四館で所蔵しているのですが帯広畜産大学の図書館以外は文面から学外者の利用が厳しそうなところが多いように感じます。

ともあれ今回のテーマは文学です。写真集なのに文学というのもおかしな話でありますがなぜこの写真集を取り上げたのかというと29ページからの交通新時代という章の中にバスの項がありそこに添えられている文章がとても美しかったからです。以下に35ページの全文を紹介させていただきます。

 

乗合バス

 

「黄色いバスが来たよ」と、弟の声で4年生の姉について弟妹3人がバスに乗り込んだ。上美生から芽室の市街の床屋さんへ行くため、指折り数えて楽しみに待っていた日だった。

後ろの椅子に並んで座った。近所のおばさんたちが挨拶をしながら乗ってきた。女の車掌さんが、鞄を腰に下げて切符を売りに来る。鞄を覗くとお金がたくさん入っていた。切符を姉が大事にリュックにしまった。

運転手さんがエンジンをかけると油の臭いがした。車掌さんが「発車オーライ」と言うと、クラクションが鳴ってバスが動く。すれ違うトラックも馬車も小さく見える。道が悪くなるとバスも人も揺れて跳ねた。

帰りのバスには、荷物を背負ったおじさんたちが乗ってきて、街の話を大きな声で話しはじめる。エンジンの音を聞きながら眠くなってきた。車掌さんの声も遠くなった。

私が小学校の2年生だった。まだ終戦前の想い出の中で黄色いバスは揺れながら走っているのだが、そんな乗合バスの風景をいまも見ることができるのだろうか。

(文:音更 嶋田美智子さん)

 

この詩のような文章の中に今では見られない十勝バスが二つありまして一つは車掌さんでありもう一つは芽室から上美生への支線です。前回は北東部の町村の支線の話をしましたが芽室町の支線の話もそのうちできたらと予定しています。そして以上三作品に出てくる目的地(大樹、糠平、茂岩、芽室)にそれぞれ十勝バスの営業所があったのですが今残っているのは糠平営業所ことぬかびら源泉郷案内所のみとなりました。