道東バスの痕跡を探して 第2回 池田町編

 池田町の路線バスの始まりはというと池田や利別の市街地より早く今の幕別町新川地区を1927年に通った大津市街〜帯広駅間の名畑仁太郎氏の大印自動車が最初の運行と言えそうです。なぜ幕別町新川が池田町の路線バスの始まりに関係あるのかというと幕別町新川がかつて池田町の上統内という地域だったからです。新川とは文字通り新しい川で今の千代田から茂岩まで直線状の統内新水路を造ったことに由来します。統内の新水路工事には蒸気機関車も使用されたりしていますがここはバスの話。十勝バスの浦幌線の末期には新川始発浦幌行きが運行されていました。そんな新川(上統内)の対岸の利別や池田市街地の路線バスの始まりはというと池北三町の回

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の通り翌1928年に松本峯太郎氏(後に佐々木時光氏から中央乗合自動車)による池田〜本別間の運行で始まります。池北三町の回であえて細かく触れませんでしたが池田〜本別間の運行と聞くと世代によってはかなり違和感を感じる表現かもしれません。オールドファンとしてどこに違和感を感じてほしいかと言いますと池田〜本別ではなく利別〜本別間ではないのかというところです。

現行の十勝バスの利別〜池田〜様舞〜近牛〜高島の池北線沿いの経路は2002年から。それまでは利別〜豊田〜青山〜信取〜高島の国道を主に走る経路でした。ではこの1928年の池田〜本別間の松本・佐々木氏の路線バスはどこを通ったのかというと池田〜利別〜青山〜高島〜勇足〜本別という池田から利別川を渡り利別以北は高島の対岸まで一度現国道を通る2002年までのバス路線と同じ経路でした。

 

池田町内関係の路線バス網図(同時に全て存在したわけではありません)

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(1980年頃の道路状況を元に作成。黄色は十勝バス系列が始めた路線、赤色は道東バス系列が始めた路線、青色は国鉄バスが始めた路線、緑色破線はブルーグラス号)

 

次に定期運行が始まったのは帯広〜幕別〜池田間の竹腰広蔵氏(後に野村文吉氏)の十勝自動車の路線なのですがこの当時の十勝自動車は貨物事業も行っていて幕別経由の帯広〜池田間は貨物の路線でした。よって二番手の路線バスと言えるのは中央乗合の本別〜池田〜帯広か雨宮房一氏の雨宮バスの池田〜下士幌〜帯広の二路線となりそうです。

 

戦後になると国鉄バスの台頭が始まります。池北三町の回で本別・勇足〜士幌間の国鉄バスについて書けなかったので今回の図に本別分も含めてますが1951年6月11日に池田〜昭栄〜豊頃〜茂岩〜駒畠の運行が認可され続いて1953年には池田〜様舞〜高島〜常盤〜下居辺〜士幌市街の運行も開始されます。4年後には駒畠から大樹までの国鉄バスも運行を始めるので大樹から士幌まで国鉄バスの路線網が繋がるという今では考えられない時代がやってきます。1955年11月には国鉄バスの東台線も池田から東台郵便局まで運行を始め1957年には東台から富岡第三会館まで路線を延長します。1955年には道東バスが利別〜川合〜育素多〜茂岩という国鉄バスの対岸を走る路線を始めますがこれは長続きしなかったようです。

 

十勝のどこの市町村でもそうですが1950年代に国鉄・民営ともに路線バス網が急拡大するものの早いところでは1960年代前半から1970年あたりまでにはかなりの規模の小路線が廃止されています。これをモータリゼーションの進展と離農や過疎化の影響と言って終わらせることは簡単なのですが1960年代の十勝地方の農村部に何があって離農しなければならない人が続出したのかというと冷害が続いたことの影響が大きかったという記述が各市町村史にほぼ記載されています。特に国鉄バスのこの時期の地方路線の休止廃止には冷害による離農と過疎化の影響はかなり大きかったと考えられます。

 池田町内の国鉄バスの休止廃止はまず1962年10月高島〜様舞〜池田の国鉄池北線並走区間の休止から始まります。国鉄バスの士幌へ行く路線は高島〜常盤(士幌町界)まで、勇足へ行く路線は池田〜富岡(第三会館)まで、豊頃へ行く路線は昭栄(豊頃町界)までへとそれぞれ分割、短縮されます。過疎化の影響は大きく運行区間を短縮した高島〜常磐間の国鉄バスは結局6年後の1968年に廃止されます。

池田町は大きな町にも関わらず民営の路線バス事業者の車庫が存在したという公的な記録がなく、池田中心部から各集落への短距離の支線の運行は短期間の運行に終わった利別〜豊頃の路線以外は国鉄の路線以外になかったことから高島〜常盤間の代替バスの運行は結局池田町自身で行うことを決めます。今では自治体が路線バスの代替バス白ナンバーの車両で運行することは珍しくないですが当時は大変だったようで国鉄バスの廃止後すぐの運行はできず1969年12月1日に認可され翌1970年2月24日に池田町営バスの高島〜常盤間の運行が始まります。当時の銀色の車体に赤帯のカラーリングと白ではなく緑ナンバーでの運行となった池田町営バスはまるで東急バス系列の路線バスが走っているかのような印象でした。

池田町営バスの運行が始まったおかげで居辺小学校の学校給食を町営バスで搬送することができたなど旅客輸送以外にも恩恵はあったようです。この高島〜常盤間の公共交通は住民による運行組合方式の殖民軌道オルベ線から始まり国鉄バスを経て再び自主的な町営バスに戻ったと言えそうです。

 

 最後に利別のバス停について触れておきます。今の十勝バスの利別バス停は道道帯広浦幌線沿いにありますが以前は国道沿いの農協前にありました。今の国道と道道の交差点は単純な十字路になっていますが以前は国道が緩やかなカーブになっていていて利別のバス停はカーブの北側にありました。以前の交差点の線形は航空写真を見れば一目瞭然です。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=915335

以前の国道沿いの利別バス停は道東バス十勝バス合併後西側が足寄・阿寒湖・池田行き、東側が幕別十勝川温泉・帯広行きで使用していました。 今の利別と三番通りのバス停間の距離が短いのはあとから利別バス停が移設されたからということです。

 

結局池田町には他の池北三町と違い文書に残る道東バスの痕跡というものは見つかりませんでした。十勝地方でも大きい町ですし町史の路線バスに関する記述はかなり豊富なのですが池田町で道東バスの痕跡を探すのは実際に現地に行かないと難しそうです。