広尾行きのバス会社全7社の記録を辿る

十勝で最も歴史のある町で最南端の港町広尾。十勝地方に鉄道が来るまでは十勝で最初のものが広尾から広まったり最古のものが今も残ったり。内陸の帯広が拓けるまでは広尾と大津が十勝で一二を争うくらい勢いのある町でした。そんな広尾の街に路線バスが走った記憶を探してみましょう。

 

広尾市街に乗用自動車が登場したのは1918年10月9日。元河西支庁長諏訪鹿三氏が選挙運動(何の選挙かは不明)のために帯広の笹島吉治郎氏が営業許可を受けた車に乗ってやってきたのが最初と言われています。季節は秋で農作物の出荷がピーク。広尾までの道中、見慣れぬ自動車に驚き転覆したり側溝に落下する馬車が続出し到着は遅れ、広尾市街入口である楽古の坂上に着いたのは夜の8時になったそうです。そこで一行が見たのは火事のような明るさにに包まれた広尾市街地でこれは大変と急いで駆けつけてみればなんのことはない。その日は広尾市街に初めて電燈の灯りが点いた日でもあったのでした。この時の自動車を運転していたのは山畑竹之助氏。この山畑氏は後に広尾の路線バスに大きく関わっていくことになります。

 

広尾最初の乗合自動車は1919年の秋(月日は不明)栄定男氏が帯広までの運行を始め、続いて1922年(月日は不明)に竹腰広蔵氏、奥田太郎氏、秋山某氏と続々と事業を行う者が現れます。栄氏が始めた頃の帯広までの運賃は一人15円もしくは20円だったものが10円になり、奥田太郎氏の奥田自動車部が定期運行を始める1925年(月日は不明)には運賃は5円28銭になります。1926年3月1日に十勝自動車合資会社が発足しますが代表者は竹腰広蔵氏、無限責任社員は山畑竹之助氏と栄定男氏という広尾で乗合自動車事業を始めた者が多い布陣になっています。

芽室町の回でも書いたように1928年の年始までには十勝乗合の代表者は野村文吉氏に代わり竹腰氏は帯広の西隣の芽室で新たに乗合自動車事業を始めますが、同じく広尾では山畑氏が元野元吉氏、高松彦三郎氏、佐藤富治氏と新たに乗合自動車会社を興します。それが1928年9月22日に創立した(広尾)金線自動車合資会社になります。広尾金線は翌1929年6月から郵便物の逓送を委託され1931年には26人乗りのバス車両を導入するなど順調な滑り出しをしたように見えました。

 

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 (広尾町史年表より一部を切り抜き転載。上が金線自動車)

 

1929年11月2日に国鉄広尾線は中札内まで開業するものの広尾まではまだ遠く、広尾帯広間の旅客輸送は乗合自動車が主流でしたが事業者が広尾金線・十勝自動車・奥田自動車・大印自動車の四社と多く競争はやがて行き過ぎた運賃値下げへと発展します。

それまでも1926年7月21日の東京相撲帯広興行では往復6円、国鉄広尾線が大樹まで開通した1930年10月10日大樹で行われた式典参加者を狙い広尾大樹間を1円で運行したりしていましたが、1931年には広尾帯広間で1円、ついには更に半額の50銭にオマケの手拭いを付けるというところまで行き着いてしまいます。

この競争に一番迷惑したのは広尾市街でタクシーを営業していた福西芳夫氏や(東陽館の)元野栄太郎氏で「帯広まで行っても50銭でオマケに手拭いまで付くのにお前のところは隣まで行っても50銭とは何事だ」と言われ非常に困ったそうです。話は逸れますが東陽館の元野氏の災難はまだ続き1935年7月にシボレーの新車を購入したのに9月26日には大時化の黄金道路目黒橋先で激浪にその車を奪われてしまいます。

 さすがに50銭時代は長く続かず1932年9月21日広尾金線は廃業になってしまいます。すると翌日十勝自動車と奥田自動車は運賃を前日までの3倍の1円50銭に引き上げます。

 

十勝・奥田という二大バス事業者の他に十勝地方の海岸沿いではもう一つ忘れてはいけないバス事業者がいます。それが大津帯広間や止若糠内間などで力をつけていた大印自動車合資会社です。なぜか広尾町史、新広尾町史共に大印自動車についての記述が本文中にはなく資料や年表に載っているのみなのですが、その大印自動車は大樹町史によると1927年7月に広尾帯広間の運行を開始し、広尾町史年表125ページによると1934年に広尾〜サルル間を大型50人乗りバスで試運転したそうです。この路線、広尾町史年表ではサルルと書かれていますが十勝バス70年史の32ページの大印自動車の項ではルベシベツと書かれています。大印自動車のサルルがどこかは不明ですがこの路線を受け継いだであろう十勝バスの広尾〜ルベシベツ間は路線距離が11.92kmでこれは今のジェイ・アール北海道バスの留別バス停とほぼ同一です。大印自動車の広尾サルル間の本運行は同じ1934年11月3日からとのことですがどこに車庫を置いたかは分からず仕舞いです。車庫といえば同じ1934年の12月には十勝自動車は本通7丁目に支店車庫を新築したそうです。

 

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(1934年末の広尾町内バス路線図。黄色は十勝自動車、水色は大印自動車、奥田自動車や大印自動車が広尾市街のどこを起終点にしていたか不明)

 

 戦後の1946年11月25日には省営バスことのちの国鉄バスの運行が様似へ2往復、日勝目黒へ3往復で始まります。最初の仮庁舎は楽古の廠舎に置かれますが翌1947年12月には今の帯広日産広尾店の場所である当時の字茂寄基線1に移転します。町史には事務所車庫職員宿舎が街の形態に一層の重きを加えたと書かれています。

また、1954年11月からは今の十勝バスである帯広乗合の広尾〜豊似〜上豊似2往復の運行も始まります。

 

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(1954年末の広尾町内バス路線図。黄色が帯広乗合、青色が省営バス)

 

国鉄末期の1981年11月20日国鉄バス広尾支所は今の十勝バス広尾営業所の場所へ移転して広尾市街の路線が丸山方面で少し延長されます。

 

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 (1981年11月20日広尾町内バス路線図。黄色は十勝バス、青色は国鉄バス)

 

1987年2月1日に国鉄広尾線は廃止され翌日から鉄道代替バスが十勝バスによって運行されます。この改正で十勝バスは旧広尾駅に入込みを開始して快速便は旧駅前が終点、普通便は7丁目から延伸して役場前が終点になりました。JRバスは再び旧駅前が起終点に戻りました。

 

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(1987年2月2日の広尾町内バス路線図。黄色が十勝バス、青色がJR北海道バス

 

この後1993年4月までに十勝バスの路線は快速便の旧駅前終点普通便の役場前終点を役場前〜柔剣道場前〜神社前〜丸山3丁目〜桜ヶ丘団地〜営業所まで延伸運転したり、1994年4月改正から1999年11月までシーサイドパーク前への入り込みを開始したり、

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(1993年4月の広尾市街バス路線図。JRバスは変更がなく省略)

 

更に2011年4月には広尾小と広尾第二小の統合で遠距離通学になる児童救済のため経路を変更した今の形に至ります。

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(2011年4月の広尾市街バス路線図。旧広尾小学校は役場北側。新広尾小学校は旧広尾第二小学校の校舎を使用。JRバスは変更がなく省略)

 

広尾市街に存在したバス会社の車庫。

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(黄色まは十勝バス、青色は国鉄バス、白色は金線バス。丸数字は置かれた順番)

 

最後に山畑竹之助氏について。本通12丁目に山畑商店という今は製麺を主にする会社があります。町史の本文では特に記述がないのですが1959年4月の町内商工業者の現況一覧に山畑商店と山畑竹之助氏の名前が出ています。同一人物なのか初代と二代目なのか分かりませんが金線自動車の後は米穀食品業になり今の山畑商店に至っているのかもしれません。

 

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広尾町史551ページより最下部の電話番号を省いて転載)