尾田廻りと忠類廻りの路線バスのこと

更別村広尾町の間にある大樹町と旧忠類村こと今の幕別町忠類地区。広尾から分村した際には大樹と忠類で大樹村でした。旧大樹村時代最初に定期運行した乗合自動車は1925年の奥田自動車でこれに続く大印、十勝、金線といった事業者も道路としては広尾道路を通ったことになるので大樹市街から帯広を目指すには歴舟川沿いに尾田や上札内を経由したことになります。

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(戦前の路線図)

 

戦後になると広尾や池田、本別などと同様に国鉄自動車の営業所が置かれ1948年4月20日から先ず貨物輸送を始めます。大樹町史によるとこの時幕別町糠内にも派出所を置いたとのことです。忠類市街にも派出所を置く予定だったそうですがこちらは実現しなかったようです。同じ年の11月3日から大樹〜糠内〜大正の52kmで、また1957年7月18日には駒畠から勢雄~更別~大和~大正~藤経由の大樹帯広間でも旅客輸送を始めます。

大樹からの支線は1952年7月20日の浜大樹線から始まり、1953年7月15日の石坂経由の旭浜線、1955年8月5日には忠類を経由する生花線と海岸線を目指す路線を増やしていきます。生花線は1960年11月1日には晩成まで延伸しますが最初のうちは生花苗から晩成までの間は冬季運休だったそうです。

 

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(1960年12月の路線図。黄色が十勝バス、青色が国鉄バス、駒畠~更別は運休)

1960年6月に大樹本町のバス停の西側付近に十勝バス大樹営業所が置かれ運転手・車掌ともに3名ずつ配置されます。また、更別村の回でも書いた通り旧国道(広尾道路)の尾田と上札内の間の難所である無願坂を避けるバイパス工事が完了した1962年6月1日に十勝バスの大樹~忠類~更別~中札内経由の新線が開業して大樹忠類間は二社競合となります。当初は十勝バスが3往復、国鉄バスが2往復でしたが十勝バスは1969年には上り8便、下り6便と大きく運行回数を増やしています。

1962年12月21日に国鉄バスの旭浜線は石坂駅を通る経路を大樹駅からまっすぐ東を目指し今の国道336号線を通る中島8線経由へと変更します。1964年6月10日には浜大樹線の美成までの運行も始まりました。

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(1962年年末の路線図)

 

 大樹忠類間は二社競合、ということは当然バス停は両社の二つが並んで立っていたのですが分かりやすい画像はないかと探していたら良いものがありました。

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 (忠類村の二十年、7ページより一部抜粋)

 

場所は今の忠類バス停なのですが当時は待合室はなかったのでバス停は国道上に置かれていました。左の人が多いほうが国鉄バス、右が十勝バスのバス停です。

 

国鉄バスの再末期は昔の時刻表の回でも載せていますが運行経路は既に書いた通り、便数や運行時間帯は運行開始から廃止までそう変わらずに最後まで運行されていたようです。池田や本別・芽室では1970年代のうちに各町の中心街で国鉄バスに乗ることは難しくなってしまいましたので、そう考えると大樹の国鉄バスは十勝管内のなかでは使命を全うした路線と言えるかもしれません。大樹町内の国鉄バス三線1984年6月1日に廃止されます。

 

1987年2月1日に国鉄広尾線が廃止され翌日から代替バスが運行されます。とはいえそれまで鉄道よりも長い期間バスが走っていたわけですから、路線バスの事業者側から見てそれまでと大きく変わった点は快速便を運行すること、依田北愛国経由の区間便こと依田線と帯広~中札内・更別・忠類の各村発着の区間便を増発すること、広尾市街の終点を延長することです。

広尾線沿線の各市街地ではほぼ駅前通りと既存のバス路線との交差点に新しくバス待合室を設置することができましたが、代替バスを運行した十勝バスの既存のバス路線と旧駅前が離れていた市街地が二つありました。一つは広尾でこちらは旧駅舎をバス待合室に転用することもバス路線を旧駅前に入り込ませることも無理なくできましたが、問題は旧駅舎にバスが立ち寄ると既存の利用者が大きく不利益を被る大樹でした。もし雪印の工場が駅の近くにあったなら旧駅舎に立ち寄ることは容易いですし、もし十勝バスの大樹営業所が早くから国道沿いにあったなら旧駅舎に立ち寄る必要性は低くなりますが旧駅前周辺の商店街からは旧駅舎を活用してほしいと言われます。

結局、大樹の解決策として既存の普通便は代替バス運行後も従来と同じく広尾線雪印前・鏡町経由で大樹線は2条通りまでの運行とし、新設の快速便は本町~大樹(旧駅舎)~(麻友通過)~石坂という新経路で運行をすることになりました。

 

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(1987年2月の路線図。破線が新設の快速便の経路)

 

その後栄定男氏の乗合自動車から数えると82年、奥田自動車部の定期運行から数えると76年のの歴史があった上札内経由(もっとも大樹側の人は上札内経由と言わず尾田廻りという表現を使っていましたが)の路線バスが2001年3月31日で廃止されました。廃止当日かその前後かはっきりと覚えていないですが十勝毎日新聞の記者が廃止直前に惜別の乗車記事を掲載していました。歴史の長さで比べるなら大津線も廃止になった時に同じ扱いであってもおかしくないのですが大津線の惜別記事というのは見かけた記憶がありません。

十勝バスにとって広尾本線とも言うべき上札内経由(尾田廻り)の長い歴史はこうして終わってしまいました。もし国鉄広尾線が上札内経由で走っていたら、もし国鉄広尾線幕別から分岐していたら、考えても意味がないことですがもし万が一そうなっていたら上札内・元更別・尾田の市街地には今と違った未来があったかもしれません。

しかし、今ある更別経由(忠類廻り)の十勝バス広尾線もあと数年で60周年を迎えます。帯広空港線や大正小学校線という支線も残っていて本線たる風格は十勝地方の中では今でも随一と言っても差支えないでしょう。