名も高き歴史の村と光に映ゆるわが大津

広尾の話を書いたら十勝開拓のもう一つの祖、十勝の母なる村とも言うべき大津の話も遅れるわけにはいきません。ということで今回は旧大津村とそれに連なる浦幌町豊頃町の路線バスの話をします。旧大津村の現大樹町の地域については大樹と忠類の回で書いています。

 

開拓初期に函館から十勝内陸部へ行くための交通手段は陸路はあまりに険しく、大津まで海路で来て丸木舟に乗り換え川を遡るのが一般的でした。と書くと十勝川をずっと遡ったと思われがちなのですが、大津まで十勝川本流になったのは1963年からでそれまではかつてのバス停でいうと旅来や渡船場入口の辺りから十勝川本流は地名で見ると至極当然ですが十勝太の方に流れていました。大津の方への流れは大津川という名前の川で、つまり大津から船に乗ると最初は大津川で旅来から十勝川本流に乗るということです。

帯広から大津へ行くには下りなので良いとして大津から帯広へ行く川上りは四日弱かかることもったそうです。川舟はやがて丸木舟一辺倒から利別太(今の利別駅の南方)まで七十石舟、武山(今の幕別駅の北東方)まで五十石舟、帯広まで二十五石舟と川の状況に応じて使い分ける時代になりますが、舟であることに変わりはなく帯広までの川上りは風がないとかなりの労力を要したそうです。一方でこの時代の利別太や武山の市街は舟の積荷や人の乗り換えの一大ターミナルとなっていて当時にしてはかなり大きな市街になっていました。

 

この地の本格的な道路の始まりは1893年大津芽室間で開通した大津道路です。大津道路は本来新得まで造る予定でしたが、芽室川高台で予算を使い果たしそこがとりあえずの終点となりました。しかしこの時代の道路はまだ脆弱で大津〜帯広間の主な交通手段はまだ舟運です。

1898年には釧路川で使用した汽船を購入して大津帯広間で運航する計画があったものの実現せず、1900年代に入ると十勝地方に東の釧路から鉄道が伸びてきます。1903年に音別〜浦幌間、1904年に浦幌〜豊頃間、同年末に豊頃〜利別間、1905年には帯広まで開通。1907年には西の旭川から伸びてきた線路と繋がりいよいよ時代の主役は鉄道となります。

鉄道が釧路から十勝地方に伸びてきた頃から大津の凋落は始まります。鉄道が直接的な原因でもあるでしょうが、舟運自体が鉄道のある釧路や広尾と比べて港として決して良港とは言えない大津を回避するようになったり商習慣も舟本位の函館から鉄道本位の小樽が主役となったという間接的な鉄道起因の時代の変化に大津が対応しきれなかったことも大きいように見受けられます。

対釧路だけではなく対広尾でも大津の凋落は止められず、舟による旅客輸送においても1909年に乗降した旅客数は大津540人広尾168人だったのが1912年には大津95人広尾1488人とまだ広尾に鉄道がなかったにも関わらず大きく差をつけられてしまいます。

以後、大津は純然たる漁港として存続していくことになります。

 

この地域における最初の記録に残る陸上旅客輸送は現在の豊頃町側で1924年頃茂岩の中鉢氏が8人乗りの客馬車を茂岩豊頃間で運行したのが始まりとされています。翌1925年には池田の三寺氏が箱型ジープで豊頃〜茂岩〜大津間を不定期ですがバスとしての運行を始めます。

1927年小樽で運搬業を営んでいた名畑仁太郎氏が大津帯広間で定期乗合自動車と貨物輸送のため大印自動車を設立して大津の旧長嶋宅に事務所を置き後に茂岩へ移転しました。会社の開業なのか路線の開業なのか不明ですが豊頃町史には5月12日に開業と書かれています。運転回数は帯広茂岩間で6回、茂岩大津間で4回。乗客はまだ少なく2、3人であったそうです。広尾町の回でも書いたとおり、大印自動車は同年7月には帯広広尾間でも路線バスの運行を始めます。もし大津の繁栄がもう少し長く続いていれば大津〜帯広〜広尾の路線を持っていた大印自動車は戦前の十勝地方において一番大きな路線バス事業者になっていたかもしれません。

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(大印自動車の車両。豊頃町史882ページより一部を抜粋)

 

浦幌町側における最初の路線バスは1929年6月、浦幌駅前〜留真駅逓間で大津の横野勇氏が始めます。( 浦幌町史では昭和三、四年頃という表現ですので本別町史の記述を元にしています)横野氏は今の豊頃町側でも自動車貨物輸送も行ったようです。

同じ1929年には豊頃町側で船津好文氏が茂岩と二宮農場がある小川や湧洞への路線を朝晩2回の運行で始めますがこちらは1937年に運行を中止し、その権利を名畑氏へ譲ります。この1929年には茂岩〜豊頃間でも路線バスの運行が始まったのですが誰に対して認可されたか不明です。可能性として高いのは大印自動車か船津氏、低いながらもありえなくはないのが帯広の十勝自動車でしょう。

 

その十勝自動車の浦幌進出は浦幌町史によると1940年8月4日浦幌駅前から留真間と浦幌炭砿間で「無許可運行したのが浦幌における業者によるバス運行の最初である」という記述があります。浦幌〜留真間で最初に運行した横野氏がその後どうなったか分からず、無許可の意味が横野氏から十勝自動車への権利の移譲が行われないまま運行を始めたのかどうかも不明ですが留真への路線は1944年に、浦幌炭砿への路線は1951年に認可されています。

 

戦後の新規路線は1951年の年末12月28日に認可され翌1952年5月13日に運行を始めた本別活平間の路線ですが、タイミングとして帯広乗合に認可され帯広乗合から分割した道東バスが運行したことになります。また1951年には帯広乗合(今の十勝バス)茂岩営業所が置かれます。

1952年(豊頃町史883ページによる。882ページ本文中では1953年12月、十勝バス70年史113ページには1953年10月認可という記述あり)には帯広〜茂岩〜小川の運行が帯広バスによって、その小川を通る大川〜茂岩〜豊頃〜池田間の運行は国鉄バスによって1953年12月から始まります。

 

1955年4月1日は帯広乗合自動車株式会社が十勝バス株式会社へと社名を変更した日でもあり、この地域にとっては大津村がそれぞれ隣接する浦幌・豊頃・大樹へ三分割された日でもあります。帯広乗合も3年前の1952年に帯広乗合・拓鉄バス・道東バスへと三分割されましたが大津村の三分割は大津村自身が残らない三分割なのが異質なところです。

さて大津村と違い分割を経ても残った十勝バスは茂岩湧洞間の路線も再開し、これで戦前の船津氏によって始められた茂岩から小川と湧洞への二路線が再開されたことになります。同じ1955年には道東バスの活平から留真までの路線延長が4月14日認可、7月29日運行開始。10月26日には帯広浦幌間が認可され即日運行を開始、1958年には茂岩農野牛間の運行も始まり十勝バスにとって茂岩や浦幌営業所は芽室と同じくらい支線の多い一大拠点となります。

その後運行が認可された浦幌町内の十勝バスは1960年3月の十勝太線、1967年6月の上厚内線、1969年6月の留真温泉線の三路線があったようで「毎日乗客の喜びを乗せて、快走しているのである」と浦幌町史には書かれています。一方閉山に伴い人口の大きく減った炭山地区への路線は1964年に廃止になっていっています。

 

浦幌町史の記述は今となっては素敵だなと感じるものが多く524ページには「この両社(十勝バスと道東バス)の運行によって、長い間交通不便に悩んでた沿道の住民は、太陽を得たような喜びにひたったのはいうまでもない。学校統合を進めた本町が、一部スクールバスとしての利用もあり、日々快速に走り続けていることは本町進展上、大きな役割を果たしているともいうべきであろう」とあります。その一方で路線バスの車両は快走したものの経営はそうはいかずこの浦幌町史が出された1971年3月から半年後の9月に浦幌町北部の旅客輸送を担っていた道東バスは十勝バスと合併することになります。

バス会社が合併するくらいに地方における過疎化は進行し、そうなると先に出てきた通り学校の統廃合という問題も各市町村を悩ませることになります。父兄の通学費負担の問題で上浦幌地区の活平・上浦幌・貴老路・川流布・川上の中学校五校の統合は費用負担が少ない道東バスの既存路線バスを登下校に利用することにします。道道を走る道東バスの本別〜留真間の路線沿いに住んでいるバスに乗って通学できる生徒は良いとして、1963年の段階で運休になっていた道東バスの本別〜川上間は通学には使えず川上や川流布地区の中学校通学にはハイヤーが当分の間使われることになります。

また1967年には常室・留真の両中学校の浦幌中学校への統合の動きも始まります。上浦幌の統合の結果次第だったのでしょうが、通学に路線バスが使えれば通学費の負担が少ないと分かるや積極的な動きになっていきかなり速やかに浦幌中学校への統合が決まります。常室や流真から浦幌中学への通学にはこちらも従来から走っていた十勝バスが使われることになります。

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浦幌町史739ページより一部抜粋)

 

中学校の統合に伴い見直されるかと思った町内完結の支線的路線バスですが、1966年に茂岩〜湧洞間が運休、1984年までに留真〜留真温泉間を廃止、1984年夏を最後に大津〜長節湖の区間休止、1987年に浦幌〜留真間、1993年4月に茂岩〜大津間と茂岩〜小川間、2011年に本別〜留真間が廃止されるという暗い話題が続きます。

この地域において都市間バスを除いた新しい話題といえば1998年から始まったと思われる新川発浦幌行きです。浦幌8時30分発の帯広行きの送込みを全行程回送にせず、新川から浦幌高校最寄りの浦幌営業所まで営業させて主に浦幌高校の通学需要を取り込もうという狙いで始まりました。

しかしながら浦幌線自体が乗客の減少に悩んでいるなか収支の好転は望めず、2007年4月1日に幕別町の東緑町団地〜浦幌営業所の浦幌線が廃止されます。帯広釧路間を既に走っていた都市間バスのすずらん号で代替輸送を兼ねることになりますがこちらも2011年4月1日に、また同じ年の2011年7月1日には本別〜留真間にかろうじて残っていた留真線も廃止されこれをもって旧大津村と浦幌町豊頃町から民間の路線バスは完全に撤退したことになります。

 

浦幌町豊頃町・大樹町の旧大津村区域に関係するバス路線図(同時に全て存在していません)

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 (黄色は現在の十勝バスが始めた路線、赤色はかつての道東バスが始めた路線、水色はかつての大印自動車が始めた路線、青色はかつての国鉄バスが始めた路線)

 

 この路線図を見ると生花苗や晩成の旧大津村の住民が村役場のある大津市街へ行くのにものすごく苦労していたことも、三分割の際に大樹町ではなく忠類村(現在の幕別町忠類地区)への編入を望んでいたのも納得できると思います。

 

もし皆川周太夫松浦武四郎の意見のように大津川を締め切って十勝川河口港が建設されていたら、もし東京ヨリ根室縣ニ達スル路線こと国道四十三號が早いうちに完成していて大津から生花苗まで路線バスが運行していたら、もし道庁の計画通り十勝太に十勝太河口都市が造られ十勝太に鉄道駅ができていたら、もしもっと早く十勝河口橋が完成して大津〜吉野〜十勝太〜浦幌という大津村と浦幌町を行き来する路線バスが走っていたら。そのどれか一つでも実現していたら大津村が合併することは昭和時代にはなかったかもしれませんし、今頃十勝で一二を争う規模の市街に十勝太がなっていて十勝太駅前にはバスターミナルがあったかもしれません。

 

十勝太の新市街地計画や鉄道駅誘致についての記事をいくつか紹介します。

 

www.hk-curators.jp

 

sapokachi.cocolog-nifty.com

 

色々な意見があると思いますが魚族が近寄らなくなるから鉄道反対などというトンチンカンな言い伝えの噂話を信じるよりは、鉄道誘致期成会を立ち上げた人もいれば土地を寄付しても良いと言った人がいたけど叶わなかったという話を信じたほうが遥かに身のある話ができると思います。