竹腰さんと野村さん

ここまでの記事や十勝バス70年史を読んだ方は既に十勝自動車合資会社は1925年竹腰広蔵氏によって創立され1928年までには竹腰氏から野村文吉氏に経営が移ったことはご存知かと思います。しかし竹腰氏や野村氏は先祖代々明治以前から十勝の住人だったかというと当然そんなことはありません。十勝バス70年史に野村氏が十勝自動車の経営に関わった経緯が載っていますがそもそも竹腰氏や野村氏はバス事業を興すために十勝に移住してきたわけではなく、ではバス事業に関わる前は何をやっていたのだろうという疑問が出てきます。これまでと大きく趣向が違いますが今回はそんなお話です。

 

十勝バス70年史に記述のあるとおり、野村氏も竹腰氏も今の滋賀県のご出身です。野村文吉氏の名前が十勝の各市町村史に最初に出てくるのは1902年10月28日に開設された足寄太駅逓の初代取扱人としてになります。初代の駅逓は芽登街道入口付近にあり1910年に鉄道駅が出来た際に市街の移動があり駅逓も神社入口(今の足寄農協前バス停)付近に移転します。野村文吉氏は一年ほどで足寄太駅逓の取扱人を辞任しますので、のちに文吉氏の子息で1906年生まれの野村勝次郎氏が帯広百年記念館の出した「ふるさとの語り部第8号」で行った受け答えに足寄時代の話がなく渡島の上磯から帯広へ引っ越したという回想も不思議ではありません。

 

さて、ここで少し気になるのが神社の入口へ移転する前の足寄太駅逓の場所です。足寄町史では「芽登街道の入口付近にあり」という三代目取扱人の上田喜七氏の長男喜一氏の話を載せています。これだけを見ると今の足寄市街南端郊南1丁目付近の国道分岐点がまさにという感じがしますが、今の国道は改良されていることを忘れてはいけません。では改良前の旧芽登街道はというと昔の地図や航空写真を見れば一目瞭然。今の足寄交番やセイコーマート、十勝バスのバス停でいうと足寄南6条や廃止になった拓殖バスの学校入口バス停のある交差点から中学校や高校へ上がる坂道が旧芽登街道になります。

足寄太駅逓の建物は38坪。これに取扱人用の畑や馬用の施設があったことを考えるとそれなりに広い敷地が必要になります。きちんと資料に当たった訳ではなくあくまで仮説ですが、足寄南6条バス停の近くにそのような広い敷地が今でも残っているかと考えると足寄南6条というバス停名になる前は足寄営業所前という名前だったとある施設が気になります。それはかつての十勝バス足寄営業所の敷地です。以前は足寄交番の南東角に駅逓跡の標柱が建っていましたが今は朽ちて倒れた様子がグーグルのストリートビューに写っています。足寄交番から十勝バスの旧足寄営業所敷地くらいまでがかつての駅逓だったのかもしれません。十勝の駅逓について一番親切に書かれているHPもご参照ください。

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 さて話は戻り今度は竹腰広蔵氏の十勝入りです。竹腰氏の名前は音更町史に滋賀農場の支配人の一人として出てきます。音更町史の464ページ北糖農場の項によると「その前身は滋賀農場である。明治三十年代の末期に創設されたが、経営が軌道に乗ったのは、四十年代になってからである。」とあります。竹腰氏がいつ十勝に来たのかという情報は無く創設と同時に音更に来たのか不明です。ただ「大正十年、滋賀農場の経営者が代わったのを機に退いた。」という記述があり、この大正十年=1921年は竹腰氏が帯広で路線バス事業を始めた年と一致します。竹腰氏は滋賀農場の支配人を辞め、路線バス事業を始めたと言えそうです。

 

野村氏も1919年には既に帯広に居り、同郷の二人は当然交流もあったでしょう。もし交流がなければ十勝自動車はとうの昔に廃業し今頃十勝の路線バス事業者は十勝バスと拓殖バスではなく、大印バスと奥田自動車、中央乗合といった会社が残っていたかもしれません。昭和初期の野村氏は本業ではなかったバス事業に関わりを持ったほかにも映画館にも関わりを持つことになります。1918年に西1〜2条仲通で開業した神田館から改名した美満寿(ミマス)館という映画館で1928年フィルムから引火する事故が起こったからです。映画館事業はあまり記録に残っておらず野村氏がミマス館に関わった期間は短かったようですが、ミマス館は1977年まで存続しました。

 

面白い共通点としては両者とも十勝での始まりであるはずの地域へのこだわりがそれほどないように見受けられるところです。当然本人に確認をとったわけではなくあくまで各市町村史の記述からそう感じるだけなのですが、野村氏が足寄町への路線を持つことになるのは戦時統合の時期を除くと阿寒湖への路線から。竹腰氏が再起を期すための街として選んだのは音更町ではなく芽室町。どうしてそうしたのかはその時代の空気感を感じないと分からないでしょうが、そこに確かな商才があったから厳しい時代を乗り越え今でも十勝バスとして生き残ってきたのでしょう。