停名地名不一致の謎 第3回 十勝農学校と西5条住宅前の関係

帯広市街南部の西5条通沿いに十勝バスの1系統や60系統で通る西5条28丁目というバス停があります。近くの四中前や西5条30丁目、西5条南橋はずっとバス停名が変わっていませんが西5条28丁目だけは数年前まで西5条住宅前というバス停名が長く使われていました。西5条通沿いの十勝バスのバス停で丁目ではないバス停名は過去に北から順に市民会館前、市役所前、記念碑前、大谷校前(今の感覚だと大谷高前だと思うのですが当時の時刻表では校の字でした)、明星校前、四星堂前、四中前、西5条住宅前、西5条南橋、南8線です。南8線だけ異色ですがこれは前々回

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の最後のほうをご参照ください。他は学校や施設、橋の名前で丁目でなくても分かりやすいです。四星堂前は今の西5条24丁目でバス停の前に四星堂という名前のお店があったことが由来です。

それにしても西5条住宅前。西5条通沿いにあるので西5条と付くのは理解できますが住宅前。何の住宅があったというでしょう?当時のことを運転手さんに聞くと「昔はあの辺にしか住宅がなかったからだ」と言うのですが、たとえそうでも大通なんかはずっと丁目のバス停が市街地外縁の南31丁目まで続いたわけで隣の西5条30丁目も丁目のバス停ですしここだけ住宅前になったことの理由としてはちょっと弱い気がします。西5条28丁目ではなく西5条住宅前にしなければならない理由があったのでしょうか?

 

困った時の地名頼みといきたいところですが似平十勝協和の時と違い市街地の住宅前ではヒントは少なく頼りになりそうにもないですが頑張ってみましょう!これを言うのは3回目になりますが地名が残りやすい世界三大物件は駅、学校、郵便局。近くの郵便局は前回出てきた西七条簡易郵便局なので今回はあてになりません。残るは駅と学校。

近くの駅は帯広駅、なんていうのは21世紀の話。ここは昔の話のブログです。前回チラッと触れましたがここの近くにかつて十勝鉄道という軽便鉄道が走っていました。今でも入手しやすいJTBのCanBooks鉄道廃線跡を歩くIIや日本鉄道旅行歴史地図帳、昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)などをもとに考えてみましょう。

 

   

 

 

消えた轍も参考にしたかったのですが実家にあるのか手元になかったので今回は参考にできず。結構前に新装されてたことも全く知りませんでした。

話を戻して十勝鉄道。帯広大通駅から出発した十勝鉄道は新帯広〜女学校前を経て四中前〜工場前へと至ります。と言いたいのですが書物によって女学校前や四中前の駅があったりなかったり女学校前がなくて明星校前があったり学校前があったり。せっかくなので出典毎に帯広大通・帯広の次の駅である新帯広から工場前を経て川西までがどうなってるかまとめてみるところから始めてみます。

 

(1)鉄道ピクトリアル1958年8月号 知られざる私鉄(35ページの路線図)

新帯広〜学校前〜工場前〜農学校前〜稲田〜川西

(ただし36ページに路線図にはない四中前に関し「4線式で駅員無配置の四中前を経て工場前へ」という乗車記あり)

(2)鉄道廃線跡を歩くⅡ(190ページの停車場一覧)

新帯広〜女学校前〜工場前〜農学校前〜十勝稲田〜川西

十勝稲田は1932年8月11日、女学校前と農学校前は1935年12月1日開業

(3)日本鉄道旅行歴史地図帳(26ページの路線図)

新帯広〜明星校前〜四中前〜工場前〜(信号所)〜農学校前〜十勝稲田〜川西

 (4)昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)(26ページの路線図)

帯広大通〜中学校前〜工場前

(新帯広は表記なし。ただし21〜22ページでは中学校前ではなく「次の四中前というあたりは落ち着いた感じの田園地帯である」という乗車記あり)

 

新帯広駅と工場前駅との間にありそうな駅を全て書き出すと学校前駅、女学校前駅、明星校前駅、中学校前駅、四中前駅ですがこれらが全てあったら大変です。間違いないのは新帯広駅と工場前駅〜川西駅の間で工場前より北側の市街地の駅は見事にどれも揃いません。困ります。一つ一つ丁寧に見ていくしかありません。

新帯広駅は西4条にあったそうで1924年2月開業(帯広大通方面は1929年2月)今のバス停でいうと第一病院前の付近、女学校前駅は西6条に1935年12月開業、西5条通の西側で西南大通の南側の今でも機関車と客車が静態保存されている付近でしょう。

www.city.obihiro.hokkaido.jp

女学校前駅は今のバス停でいうとイオン帯広店前、時代を遡り冒頭の西5条のバス停一覧でいうところの大谷校前になり後に(時期不明)明星校前駅へと改称します。帯広大谷女学校は1923年開校。今の帯広大谷高校は1977年に帯広市内の西19条へ移転します。一方の明星小学校は1935年4月開校。帯広市図書館HPで郷土資料の欄から閲覧できる1959年の帯広市都市計画図によると帯広大通駅と工場前駅の間の西6条南23丁目付近に唯一駅の記号がある場所が次の四中前駅でしょうか?バス停に同名の四中前がありますが西6条南23丁目の位置が正しいのなら最寄りバス停は四星堂前、今の西5条24丁目になります。四中前と中学校前は同じだろうと思えますが鉄道ピクトリアル1958年8月号や昭和29年夏北海道私鉄巡り(下)の学校前駅がどこを指すのか気になります。学校前駅が四中前駅なのでしょうか?それとも女学校前駅か明星校前駅が学校前駅なのでしょうか?

帯広市立第四中学校は戦後の1951年開校。当然ですが1923年の帯広市街全図(これも帯広市図書館HPから閲覧できます)には第四中学校や明星小学校の記載はありません。しかしながらこの図には開校したての大谷女学校の他にもう一校、学校の記載があります。それは今の北海道帯広農業高等学校にあたる十勝農学校です。

 

当時の十勝農学校周辺の地図は

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の回にも載せてます。十勝農学校(正式には十勝農業学校ですがここでは農学校と書かせていただきます)は1923年12月13日帯広市西4条南23丁目に校舎竣工。ちょうど今の明星小学校と同じ場所で十勝鉄道の静態保存と同様に帯広市の史跡にもなっています。

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1935年7月29日に今帯広農業高校のある当時の川西村へ移転。十勝鉄道の川西村移転後の(新)農学校前駅は書類上で1935年12月1日開業と移転と4ヶ月ほどずれています。この年の4月に明星小学校が開校してるのでもしかしたら3ヶ月ほど小学校と農学校の同居期間があったのかもしれません。十勝鉄道の開業が1924年。農学校の敷地は南23丁目から南26丁目までと広く今の帯広第四中の敷地まで入るので(初代)農学校前駅が後の四中前駅となった可能性があるかもしれません。学校前はどこと特定できませんが学校最寄り駅の多いなか、分かりやすく区別するために明星校前を小学校前、四中前を中学校前などと呼んでいた可能性があるかもしれません。

 

さて十勝鉄道も謎が多いですが本題は西5条住宅前です。最初は農学校が川西村に移転した時、移転前の農学校職員住宅と移転後の農学校職員住宅を区別するために移転前を西5条住宅前、移転後の川西村稲田を農高住宅前としたのだろうかと考えていました。しかし西5条住宅前は南26丁目より更に南の南28丁目です。農学校の敷地ではありませんから南28丁目付近が農学校の職員住宅であった可能性は低そうです。

では住宅とは何か?帯広市図書館で見られる昔の地図の中に発行年不詳の帯広市及近郊詳図と帯広市全図があります。その二つともに西5条から十勝鉄道の線路までの間の南26から28丁目に学園住宅地という表記があります。前回を読んでいただいた方ならご存知でしょうがこの辺りの宅地開発は十勝鉄道の東側は1931年より前に、西側は1931年より後1933年までに計画されていました。計画であって実行は戦後になりますが西5条の農学校跡地南側付近に住宅分譲地を作る計画がありそこを農学校や四中にちなんで学園住宅地と名付けたのは間違いなさそうです。一つの可能性として西5条学園住宅地前、これを縮めて西5条住宅前というバス停にした説をあげます。

 

次にもう一つの可能性を。今では立派な幹線道路の西5条通ですが昔の地図を見て違和感を感じなかったでしょうか?発行年のはっきりしている地図はどれも四中より南側に西5条通が伸びていません。これは航空写真を見ても同じで地図のミスではなく本当に西5条通が南27丁目以南に通ってなかったと言えるでしょう。昔の地図や航空写真から判断すると西5条通が四中より南の南27丁目から南34丁目の南8線まで区間で西5条南橋で売買川を渡って全通するのは1954年以降1959年までの間と言えそうです。

ではそれ以前はどうやって売買川を渡っていたのかというと3つの道路がありました。広尾街道大通の南橋、西2条通の南線橋、最後の一つは十勝鉄道沿いの細い市道に架かる鉄平橋です。稲田のイトーヨーカドー帯広店の北側にあるみどり食堂の東側にある細い道から入った先にある橋が鉄平橋でその先のかつての谷乃湯(今の西6条27丁目バス停)の前で四中の南側に出る通り。これが第3のルートです。

 

 

大通の南橋や西2条の南線橋と違い西5条にも南橋がある現代では用がないとわざわざ通る人もいないでしょうがかつては鉄平橋の通りが下帯広と(川西)下稲田を結ぶ第3のルートだったのです。さてその鉄平橋のすぐ北側には西5条住宅地がどうのという話が出る前から住宅が集まって建つ一角がありました。西5条で売買川を渡れない以上、大通以外で売買川を渡り稲田の日甜工場や住宅を目指そうとすると鉄平橋を通るバス路線がもしかしたらあったかもしれません。鉄平橋の通りを南7線道路までくるバス路線はありましたし西2条の南線橋は道東バスのニッテン線が通りました。

そんな時代にこの鉄平橋の通りの学園住宅地西側にバス停を置くとしたら学園住宅地前か学園住宅前というバス停になるでしょう。のちに幅員の広い西5条通に南橋が完成しバス路線も西5条を経由する便ができると西5条の学園住宅地のバス停はどうなるでしょうか?おそらく西5条学園住宅地前か西5条学園住宅前、ちょっと長いのでもしかしたら学園の文字は省いてしまうかもしれません。

 

どちらにしても学園住宅地が由来だと考えますが市内南部において西5条が昔から国道の次の幹線道路だったわけではなく、前回の十勝バスの東官舎線もそうした理由で四中前から南8線〜稲田橋〜日甜住宅を真っ直ぐ目指さずに法広寺〜動物園〜(墓地南側)〜東官舎〜稲田〜日甜住宅という回り道の経路を選択したわけです。