国鉄バス対十勝バス 4線5線戦争番外編!芽室町での戦い

帯広の西隣芽室町。最近廃止から復活した清水町から帯広への路線バスが話題になりましたがもともとはどういう路線が芽室町内にあったのでしょうか?芽室町史は五十年史、八十年史、百年史とありますが交通の章の路線バスの記述が一番緻密だったのは八十年史だったのでここでは八十年史をもとに見ていきましょう。

 

芽室での路線バスの始まりは1928年5月15日竹腰広蔵氏の第一自動車商会による芽室〜上美生・上伏古の循環路線です。竹腰氏は1921年に帯広から音更・広尾と帯広市街の路線バス事業を始めて1925年に十勝自動車合資会社を創立した方です。1928年の年始に十勝自動車の経営の実権は野村文吉氏に移っていたようで竹腰氏はその年の春に芽室での路線バス事業を始めたということになります。

芽室駅北側の本通2丁目(第一自動車商会前)を起点に中美生〜上美生〜20号道路〜上伏古〜10線8号(坂の上)を経て芽室に戻る路線で始まりましたが乗客の少なさと20号道路(今の道道55号清水大樹線)が悪路でのちに芽室〜上美生と芽室〜上伏古の二系統に分かれての運行になります。この時の芽室上美生間の運賃は40銭で車両は客席5名運転席に運転手1名助手2名が乗るホロ型ということです。

 

1930年6月10日には野村氏の十勝自動車(芽室町八十年史には帯広乗合自動車株式会社と書かれていますが当時はまだ十勝自動車合資会社のはずです)の帯広芽室間の路線で運行が始まり、翌1931年7月11日には芽室清水間、同年11月10日には帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室の今でもあれば芽室北線と命名されそうな路線も運行を開始します。

 

戦後の新規路線開業は1948年6月10日、今の東2条南1丁目に国鉄バスの帯広自動車区芽室支所が置かれ西士狩線(帯広〜木野〜国見〜西士狩〜芽室)と平和線(芽室〜祥栄〜平和〜元駅逓)の二路線で始まります。

民営では帯広乗合が1950年8月10日に帯広〜芽室〜毛根〜熊牛〜屈足の屈足線、翌1951年9月1日に上伏古線から枝分かれする形の芽室〜坂の上〜13号道路〜上帯広の上帯広線の運行を始めます。また戦時中は休止していた芽室北線こと国見・西士狩経由の帯広芽室間を1951年10月に再開させます。国鉄バスが国見・西士狩経由の帯広芽室間の西士狩線の免許を受けることができたのは同じ経路の帯広乗合が休止していたからなのでしょうが、芽室北線が再開されて競合で大変だったのではと思う間もなく国鉄バスの西士狩線は半年もたず1948年11月3日に休止となります。(廃止は1972年6月1日)

国鉄バスの芽室支所の廃止は早く1952から1953年の間ですが帯広から回送で芽室まで来る形態で支所廃止による運行への影響はなかったそうです。芽室支所の施設は芽室町の土木車両の車庫、職員住宅は町職員住宅に使われたそうですが1964年の大火により共に焼失しています。

 

1955年に帯広乗合(帯広バス)から社名を変更した十勝バスとはその後も路線の申請合戦の体で芽室西部方面は1954年9月1日に国鉄バスが芽室〜高岩〜渋山〜旭山〜御影の運行を始めれば1956年2月20日に十勝バスが芽室〜高岩〜上芽室〜御影の御影線を始め更に国鉄バスは1957年11月に自社線の南側を通る芽室〜高岩〜報国〜渋山〜上渋山の枝線を始めると言った熾烈な競争が始まります。

ちょうど帯広市内でも緑ヶ丘病院や帯広南商業高校が出来る頃で国鉄バスと十勝バスで4線5線戦争が始まろうとしている頃ですが同時に芽室町でも戦いが始まろうとしていました。帯広市内4線5線戦争の余波なのか単なる路線延伸政策の一環なのかの判断は読んだ方にお任せしますが芽室町内の東側でも競争が激しくなってきて1956年2月16日には国鉄バスが芽室と帯広両方向から北伏古や日の出まで、1959年5月にはついに日の出から上帯広の対岸にある栄まで進出してきます。これには十勝バスもたまらず3ヶ月後の1959年8月12日から芽室〜上帯広間の経路を坂の上(10線8号)経由から農業試験場〜6線経由へと経路を変更して反撃を開始します。元の経路の10線8号から13号〜6線〜共栄〜上伏古〜10線8号という循環線も運行を始め二重に防衛線を設定して国鉄バスの南進を阻止しようとします。

さすがに競争が厳し過ぎると感じたのか両社ともこれ以降は他社の運行エリアを伺うような路線の申請は1960年10月14日の十勝バスの芽室から毛根〜関山〜上関山の路線が最後となり、国鉄バスは祥栄の東の北明地区に1962年10月1日、十勝バスは1961年8月5日に上美生の先の雄馬別循環や観光シーズンの日祭日のみ運行の伏美湖といった自社線の延長に重きをおくようになります。この時代最後の新規路線は1965年1月11日の十勝バスの南2線経由芽室線(芽室南線)になります。

 

1965年夏の芽室町両社路線図(国鉄の西士狩線は既に休止ですが廃止にはなってないので図に掲載してます)

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(黄色実線は十勝バス、青色実線は国鉄バス、青色破線は十勝・国鉄道南バスの日勝スカイライン。高岩・上芽室経由の十勝バス芽室御影線と毛根経由の上関山線は経路がきちんと分からず不掲載)

 

1966年になると両社の戦線も落ち着きだしたのか休止路線が出てきます。年初には十勝バスの高岩・上芽室経由御影線、11月5日には国鉄バスの報国経由上渋山線。1967年2月1日には十勝バスの西士狩線が休止、1969年7月14日には農業試験場〜上帯広が区間休止、10月27日には上美生〜伏美湖の区間と上関山線が休止。そして1970年になると12月25日に平和・北明・元駅逓方面の国鉄バス平和線が、3日後の12月28日には既に休止していた上渋山線と御影線が廃止になります。

1971年8月2日には芽室町国鉄バスの車両の払下げを受け町営で廃止された上芽室・上渋山・平和方面で代替バスの運行を始めます。池田町同様廃止後即町営バスが代替できたわけではないですが池田町の時よりは早く町営バスの運行が始まったのは池田町の苦労のおかげかもしれません。

路線の休廃止は止まらず、1972年3月23日には休止していた十勝バスの高岩・上芽室経由御影線が廃止、3月31日には国鉄バスの芽室〜大成〜北伏古線が休止、6月1日にはその国鉄バス大成経由の北伏古線と1948年に休止になって以来すっかり忘れられたいたのかどうかは分かりませんが西士狩線の二路線が廃止になります。そしてとうとう1973年3月31日には芽室駅前から唯一発着していた国鉄バスの芽室〜北伏古〜栄小学校間(日の出線)も廃止となり芽室駅を発着する国鉄バスがいなくなってしまいます。(北伏古には帯広からの路線もありそちらはもう少し残ります)

 

1981年夏の芽室町両社路線図

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 (黄色実線は十勝バス、青色破線は十勝・国鉄バスの日勝スカイライン、帯広発着になった国鉄バス北伏古線は省いています)

 

十勝バスのその後は1985年夏ダイヤでは新得線の急行運転取りやめ各駅化、1987年には上伏古線、上美生線の両線が廃止となります。1991年夏ダイヤでは帯広市内の経路がそれまでの国道38号線直通から南1線柏林台北町経由へと変更されました。朝の十勝支庁への通勤や柏葉高校通学者救済のため上り1便のみ道職員住宅のある芽室東5条や国道38号線・帯広西2条通経由の帯広駅行きは残されたものの大胆な組み替えでした。

1993年夏ダイヤでは芽室南線の一部を大谷高校経由にした芽室大谷線を、1998年8月1日には上伏古・上美生線廃止後バスの走らなかった芽室市街鉄南地区を走る鉄南循環の芽室線の運行が始まります。

 

1998年の芽室市街十勝バスの路線図

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(実線は30系統芽室線、丸破線は31・33系統、長破線は32・34系統緑町終点、短破線は30系統芽室循環線)

 

2002年夏ダイヤをもって新得線、芽室市街の鉄南循環、大谷高経由の芽室南線はそれぞれ廃止、2009年夏ダイヤでは国道・南1線柏林台北町経由の帯広駅前発着便を全廃し芽室市街の循環線化など色々な取り組みをして先日の清水芽室間再延伸こと清水帯広線の新設に至ります。

 

2009年の芽室市街十勝バス路線図

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(実線は31系統、破線は通勤通学バスことS12系統)

 

以下に芽室町内の路線バスにまつわる年表を載せます。抜けてるところもあるのですが少しでも皆様の理解の一助になれば幸いです。

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(黒字は新規開業または延伸、黄字は休止、赤字は廃止、青字はその他のトピック)

注1.1966年11月5日の国鉄バス上渋山線運休が脱落

注2.1987年の十勝バス上伏古線・上美生線の廃止が脱落

 

最後になりますが芽室町八十年史では十勝バスの西士狩線は廃止になったという記述をついに見つけることができませんでした。もしかしたらのちの中鈴蘭線や緑陽台経由音更線に西士狩線の一部区間が流用されたのかもしれません。