道東バスの痕跡を探して 第1回 池北三町編

十勝管内の市町村史は鉄道に関する記述はかなりのボリュームがある一方、路線バスに関してはかなり濃淡が分かれます。十勝バスと道東バスが競合していたところではなく道東バス単独の路線があった町なら道東バスに関する記述があるのではないだろうか、という淡い期待を抱いて十勝北東部(池北三町)の町史にどんな記述があるか探してみましょう。

 

 

【1】陸別町

最初は陸別町です。陸別町史は鉄道の町なだけあって路線バスについてはアッサリとした1ページほどの記載です。全く触れられてないよりは遥かに良いのですが痕跡を辿るのには苦労します。これが足寄や本別であれば道東バスから十勝バスに会社が移っただけで帯広への路線は今に至るまで残りましたので苦労はしませんが陸別は一度バス路線が完全になくなってしまいましたのでかなり厳しいです。十勝バス70年史に路線の免許の情報はあっても起点終点しか分からず地図もないのでどこを通っていたかまでは分かりません。とりあえずはその陸別町史の1ページから痕跡を辿ってみましょう。

1930年旅館経営者井上六郎氏の立案で陸別から(津別町)本岐間で観光用の自動車を走らせようという動きがありこの時導入したフォードT型は実際は阿寒湖畔で営業を開始します。なぜ遠い阿寒湖畔でと思うでしょうが井上氏は阿寒湖畔でも旅館していてその一環で阿寒湖畔〜本岐〜陸別という観光ルートを夢見ていたのかもしれません。この井上氏は陸別町内でも1931年から陸別駅〜上斗満で定期の自動車運行を始めますが「道路も悪く、利用者も少ないので1年半ぐらいで止めた」と陸別町史に書かれています。これが陸別町における路線バスの始まりと言えるでしょう。

十勝バス70年史には陸別町内に三つの路線の免許があった旨が書かれています。足寄陸別間の陸別線。陸別鹿山間の上陸別線。最後の一つがトマム循環線とあります。

陸別線は国道242号線を足寄から陸別まで、上陸別線は道道51号津別陸別線沿いに陸別から鹿山(上陸別)まで走ったのかなと容易に想像することができます。問題はトマム循環線です。なぜなら陸別町にはトマムが二つあるからです。一方は斗満、もう一方は苫務で読みはどちらも「とまむ」です。なぜ同じ読みの隣り合ってる地域で漢字が違うのでしょう?

これは隣町の足寄町にヒントがあります。旧足寄駅から国道241号で阿寒湖のほうに向かうとすぐに両国橋という橋を渡ります。なぜ両国なのかというとそこがかつての釧路国(足寄村)と十勝国(西足寄町)の国境だったからです。同じトマムという読みながら当てる字が斗満と苫務で違ったのは国が違ったということです。斗満は十勝(足寄側)苫務は釧路(陸別側)だったのです。斗満はのちに陸別町に編入されて同じ町内に斗満と苫務が存在することになります。

また、昔の時刻表から道東バスと国鉄バスを考えるの回に載せた路線図を見ると陸別から川上や小利別を経て置戸に至る路線があるように見えるのですが陸別町史には記載がありません。鉄道並行路線にはなりますが川上とか日宗にまだ人が住んでいた頃なのでバス路線があってもおかしくはありません。置戸町の町史や創業記念北見バス20年とかに何か記載があれば良いのですが…(まだ確認していません)

ちなみに、道東バスの陸別車庫は東1条にあったそうです。町史に載っている昔の市街地図を見ると今の進藤モータースの辺りになります。また、陸別町の名誉のために付け加えるなら陸別町は鉄道があるからといって路線バスを無下に扱ったわけではなく道東バスや北見バスに対し然るべき赤字補助金を出していました。

最後に陸別町での北見バスは1957年に津別〜陸別間の運行が始まりますが10年後の1967年7月5日に陸別〜(津別町)二又間が廃止されふるさと銀河線代替バスの運行まで陸別町から北見バスは一時撤退となります。津別から二又間は津別町営バスが代替となりましたが二又から鹿山の津別陸別町境間に代替手段は確保されませんでした。

 

【2】足寄町

続いて足寄町です。先にチラッと触れましたが今の足寄町は十勝側の西足寄町と釧路側の足寄村が合併してできた町になります。一時は日本一広い市町村だった足寄町。町内で完結する支線的なバス路線も十勝地方では多いほうになります。

幹線は足寄から道東バスの本別、陸別線。1929年9月19日の十勝毎日新聞に小泉和雄氏の運行する本別駅前〜仙美里〜足寄太〜愛冠小学校の路線がこのほど自動車営業開始と報道されています。拓殖バスの路線の前身になる足寄駅前〜芽登〜上士幌市街間はこれより先の1927年に阿部某氏が6人乗りシボレーで運行を始めるのでこれが足寄における最初の乗合自動車と言えそうで拓殖バスの帯広直通足寄急行線は1959年10月20日から運行されます。

足寄からの支線は西へ拓殖バスの足寄〜芽登〜喜登牛〜奥芽登が1957年10月30日から運行、東へ道東バスの平和、稲牛、上螺湾(1959年10月10日から)、茂足寄(1952年6月5日から)の各線。稲牛線は十勝バス70年史にのみ、上螺湾線は足寄町史にのみ掲載されてます。稲牛と上螺湾は山を一つ挟んでいるので同一の路線とは考えにくく両路線とも存在したと思うのですが他に資料がないかもう少し探してみたいところです。本別足寄間は本別町史によると足寄営業所の経営線と書かれています。

また、足寄といえば阿寒国立公園への観光客輸送の玄関口ですが国立公園指定の2年後の1936年の統計では足寄から阿寒湖畔へ156人、阿寒湖畔から足寄へ110人の貸切輸送があったとのことです。茂足寄線があったからこそのちに道東バスが阿寒湖に進出できたと言える一方で阿寒湖への輸送は足寄駅からの路線でじゅうぶんと言わんばかりの態度で帯広発路線への対応が鈍く十勝バスの阿寒湖進出の報にひどく驚いたとも言えるでしょうか?

帯広阿寒湖直通線は道東バスが1954年6月1日から、帯広乗合(今の十勝バス)は1月遅れて1954年7月1日から運行を始めます。道東バスは拠点のある地の利を生かし1959年の6月から阿寒湖畔〜雌阿寒登山口〜野中温泉〜オンネトーや雌阿寒登山口〜オンネトー区間輸送も始めます。道東バスは各営業所ごとに隣どうしの各町村間や中心部から集落へといった北海道にしては比較的短距離の輸送を好んでいた社風だったのも十勝の他社とは大きく違うところかもしれません。そんな道東バスの大きな拠点だった足寄町の支線は十勝地方では長く残ったほうだと言えるでしょう。

 

【3】本別町

最後に本別町です。幹線としては1928年に池田本別間、1929年に本別足寄間で乗合自動車の運行が始まります。本別からの支線は四路線で本別町中心部から美里別川の両岸を西へ向かう二路線(上美里別への路線は1951年2月認可)と本別大坂(浦幌坂)を登り浦幌町に入り坂の上で浦幌川の上流である川上を目指す路線と中流の留真を目指す路線とに分かれました。本別から留真への路線は最初本別上浦幌線として1949年11月に認可、活平までは1951年12月28日認可で1952年5月13日に運行が開始されます。観音坂から先の留真までは1955年4月14日認可で7月29日運行開始です。また留真から南は十勝バス浦幌営業所のエリアになり留真は乗り継ぎの拠点になったようで留真駅逓〜浦幌駅前間は1929年6月大津の横野勇氏によって運行を始めます。留真線はのちに道東バスと十勝バスが合併してからは本別留真間と留真浦幌間、本別浦幌間直通の三系統運行されるという地方支線にしてはなかなかの盛況ぶりでした。本別上美里別間は1983年3月までに留真浦幌間は1987年までに順次廃止されました。しかし本別留真間は十勝バス最後の支線として2011年まで運行されました。

f:id:Zentokachinoriai:20180330171415j:plain

(ブレてますが観音坂に挑む194号車)

 

f:id:Zentokachinoriai:20180330171745j:plain

f:id:Zentokachinoriai:20180330170624j:plain

(在りし日の終点留真バス停)

 

本別にも道東バスの営業所があったと本別町史に書かれていますが場所の特定には至りませんでした。駅前に案内所はあったようですが車庫も併設されていたのか別の場所に車庫があったのかなど詳しくは不明です。

足寄から芽登間の拓殖バスが一部本別町の町域にかかっていました。かつて新生(あらなり)小学校バス停があった辺りです。新生小学校は本別町立ながら隣接する足寄町中矢地区(戦後の帰農隊の入植地で中山少佐の中と矢本大尉の矢を取った地名)の児童の委託通学を受け入れました。また、本別からは美蘭別、佐倉を経由して士幌まで行く国鉄バスも出ていました。以下、本別士幌間の国鉄バスを除いた陸別・足寄・本別の大まかなバス路線図です。

 

 

f:id:Zentokachinoriai:20180329113520j:plain

(赤実線は道東バス、赤破線は拓殖バス、黄実線は十勝バス、緑実線は北見バス、青実線は阿寒バスと北見バス)

 

その他のバスとしては陸別町足寄町国鉄バスの招致に熱心だったという記載が両町史にあります。陸別町では北見〜津別〜陸別〜置戸〜北見という大循環線を招致したかったようで、足寄村(当時)では国鉄の他道東バスの足寄〜茂足寄間の運行が始まる前に村営バスの自主運行を行おうともしていました。