失われた帯広駅前バスタッチの遺跡を求めて 序章その1

国鉄広尾線廃止翌日の 1987年2月2日から供用開始となったと言われる先代の帯広駅バスターミナルこと帯広駅前バスタッチ。そもそもバスタッチって何、バスターミナルじゃないのとか、供用開始直後から同年3月の国鉄士幌線廃止前の間に音更・士幌方面のバスも既にバスタッチに乗り入れていたのか(現時点では不明です)とか謎は色々とあります。

 

今回はそもそもバスタッチとは何でどういうものだったのかについて書きます。なぜ1987年当時、帯広駅前バスタッチになって帯広駅前バスターミナルとならなかったのか?それはもうバスターミナル機能の必要性は認めてもバスターミナルという言葉を使いたくなかったのでしょうの一言に尽きます。インターネット上に既に情報はたくさんあるのでここではあえて書きません。

「バスターミナルという言葉は使いたくないけどバスターミナル機能は作らなくてはならない。 ならばバスターミナルという言葉を使わなければ良いではないか(ガハハ)」と代官が言ったかどうかは知りませんが、とにかく事実上のバスターミナルだけど名前はバスターミナルではないよという構造物を国鉄広尾線の廃止までに作ることは決まります。

「お代官様。それで一体名前はどうしたら良いでしょう?」

「うむむ。そうじゃのう…」

ここで普通であればバスセンターなりバスステーションという名称にしようと考えるのですが、そこは進取気鋭でなければ気が済まない十勝人の性。他所と同じは何か嫌、だけどまた揉め事は嫌なので一応理屈や筋道は立てたい。そこで色々と考えます。

ターミナルは起終点であり当時の帯広駅周辺の路線バス事情を考えると実情にそぐわない、帯広駅前を通過しているが起終点ではない。よってターミナルではない。

バスセンターは和製英語であり諸外国には通用しない。よってバスセンターにはできない。

バスステーションではステーションが鉄道駅を連想させるので鉄道代替バスを発着させるのに相応しくない。よってバスステーションにはできない。

バスステーションが候補から除外された経緯はちょっと強引ですが、少なくともバスターミナルやバスセンターにしなかった理由は当時の道新か勝毎に載っていた記憶があるのでそういう話し合いがなされていたはずです。

困った代官一味が実際に帯広駅前の十勝バスか国鉄バスの発着している様子を見て思案に暮れていたかどうか分かりませんが、当時の十勝バスは既に書いた通り西帯広に統合営業所を完成させて運用していたので駅前起終点の便は朝夕ラッシュ時の例外を除きほとんどなく、郊外から来たバスは駅前を通過しまた別の郊外へと走って行きますしそれは東8条に営業所があった国鉄バスも同様です。

「まるでバスのタッチアンドゴーじゃな」と誰かが言ったのかどうか分かりませんが、到着して折り返さずそのままの進行方向で別の目的地に行くのでタッチアンドゴーみたいという理屈は人々に一見分かりやすく感じるかもしれない。そうしてバスタッチという名前の構造物ができましたというのがよく聞く話です。

意外とバスタッチの話題をインターネット上では見ない中、バスタッチそのものではないけど貴重な記録として以下のリンクを貼っておきます。

www.miyanomayu.com

 

個人的にはそもそも当時の拓殖バスは中心部を片循環運行している療養所線以外は帯広駅前起終点(バスターミナルまで走ってる便もありますが)だったので、ターミナルではない論を強硬に唱えられるとちょっとどうなのって思ってしまいます。

それと「タッチアンドゴー」論が大手を振っているのも疑問でその理屈じゃ乗客は乗降できないしって思ってしまいます。じゃあタッチはどこから来たのかというとおそらく船舶が寄港する意味のタッチから取ったのではないかと推測します。本当は船舶が寄港して貨客を搭降載してまた次の寄港地へ向かっていく様をバスに準えたのではないかと思いますが、まあ船舶ほど長時間停車しないし話を短く分かりやすく伝えるにはタッチアンドゴーは楽ですよね。

 

前置きはほどほどにして本題へ。

帯広駅前バスタッチは帯広駅の東側、西1条と西2条の間に作られました。バスの乗り場は8バース、イトーヨーカドー横の中央バスターミナルと違い場内は一方通行ではなく対面通行なので乗り場は南北両側に置かれています。南11丁目通からバスタッチ西側出入口までは供用前は南東向き一方通行でしたが供用後はその区間のみ対面通行になっています。(バスタッチ出入口から西1条通までの区間は変わらず南東向きの一方通行)

東側はなぜか北西から南東に向かう一方通行の道路が優先道路で、バスの通る西1条通からバスタッチ東側出入口に繋がる南北の道路のほうが幅員は広かったですがこちらに一時停止の標識が設置されていました。

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 ↑黄色は十勝バス、赤色は拓殖バスの乗り場

 1987年の開業当時の乗り場は以下のように使われていました。

1番 (あかしや団地・江陵高校線含む)札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

2番 大谷高経由営業所行き(音更方面各線着)

3番 大正経由広尾方面各線(依田線以外の国鉄広尾線代替バス含む)

4番 新町線着→芽室線・新得線発

5番 拓殖バス木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)

6番 十勝バス木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)

7番 市役所・西5条経由営業所行き(広尾方面各線着)

8番 芽室・新得線着→新町線発、白樺通経由営業所行き(札内方面各線着)

 

1989年11月改正冬ダイヤで拓殖バスの一中線が富士銀前始発・かじのビル前終着をやめ、バスタッチまで延伸してます。

 

1990年4月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

1番 (あかしや団地・江陵高校線含まない)札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

市立病院線が廃止になり南商線に系統分割(短縮)してあかしや団地線と同一車両で運用。南商・あかしや、江陵高校線の駅前バス停はバスタッチから市立病院線で使っていた富士銀前・かじのビル前へ。

 

1991年4月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

4番 新町線着→芽室・新得線発、芽室・新得線着→新町線発

8番 白樺通経由営業所行き(芽室方面からの到着が4番へ移動し白樺通専用に)

話は逸れますがこの頃の新町線は毎年ダイヤ改正の度に変更が加えられていてちょっと興味深いです。

1989年10月改正(?) 35系統新町線と芽室線・新得線(国道経由)に駅前で系統分割(運用は同一車両)

1990年4月改正 新町線がそれまでの西町〜南町3丁目(現在の西18条2)〜白樺通19条〜大江病院経由から柏林台通全通で北町5丁目〜西陵中学校〜三七北に経路変更。新町線の系統番号を35から36へ変更。芽室線大減便(19往復から8往復へ)

1991年4月改正 芽室線・新得線の市内区間を国道から柏林台通経由(新町線と同一経路)に経路変更。便数の減った国道14号〜国道西22条間は大空団地線の経路変更で対応。

 

1993年11月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

1番 大谷高経由営業所行き(音更方面各線着)

2番 新町線着→芽室・新得線発、芽室・新得線着→新町線発

4番 札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

6番 木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)、戸蔦線(柳月駅前店前から移動)

この変更は何の理由があったのか不明です。

 

意外とバスタッチの乗り場の変遷が多く長くなりそうなので今回はこの辺で。