失われた帯広駅前バスタッチの遺跡を求めて 序章その1

国鉄広尾線廃止翌日の 1987年2月2日から供用開始となったと言われる先代の帯広駅バスターミナルこと帯広駅前バスタッチ。そもそもバスタッチって何、バスターミナルじゃないのとか、供用開始直後から同年3月の国鉄士幌線廃止前の間に音更・士幌方面のバスも既にバスタッチに乗り入れていたのか(現時点では不明です)とか謎は色々とあります。

 

今回はそもそもバスタッチとは何でどういうものだったのかについて書きます。なぜ1987年当時、帯広駅前バスタッチになって帯広駅前バスターミナルとならなかったのか?それはもうバスターミナル機能の必要性は認めてもバスターミナルという言葉を使いたくなかったのでしょうの一言に尽きます。インターネット上に既に情報はたくさんあるのでここではあえて書きません。

「バスターミナルという言葉は使いたくないけどバスターミナル機能は作らなくてはならない。 ならばバスターミナルという言葉を使わなければ良いではないか(ガハハ)」と代官が言ったかどうかは知りませんが、とにかく事実上のバスターミナルだけど名前はバスターミナルではないよという構造物を国鉄広尾線の廃止までに作ることは決まります。

「お代官様。それで一体名前はどうしたら良いでしょう?」

「うむむ。そうじゃのう…」

ここで普通であればバスセンターなりバスステーションという名称にしようと考えるのですが、そこは進取気鋭でなければ気が済まない十勝人の性。他所と同じは何か嫌、だけどまた揉め事は嫌なので一応理屈や筋道は立てたい。そこで色々と考えます。

ターミナルは起終点であり当時の帯広駅周辺の路線バス事情を考えると実情にそぐわない、帯広駅前を通過しているが起終点ではない。よってターミナルではない。

バスセンターは和製英語であり諸外国には通用しない。よってバスセンターにはできない。

バスステーションではステーションが鉄道駅を連想させるので鉄道代替バスを発着させるのに相応しくない。よってバスステーションにはできない。

バスステーションが候補から除外された経緯はちょっと強引ですが、少なくともバスターミナルやバスセンターにしなかった理由は当時の道新か勝毎に載っていた記憶があるのでそういう話し合いがなされていたはずです。

困った代官一味が実際に帯広駅前の十勝バスか国鉄バスの発着している様子を見て思案に暮れていたかどうか分かりませんが、当時の十勝バスは既に書いた通り西帯広に統合営業所を完成させて運用していたので駅前起終点の便は朝夕ラッシュ時の例外を除きほとんどなく、郊外から来たバスは駅前を通過しまた別の郊外へと走って行きますしそれは東8条に営業所があった国鉄バスも同様です。

「まるでバスのタッチアンドゴーじゃな」と誰かが言ったのかどうか分かりませんが、到着して折り返さずそのままの進行方向で別の目的地に行くのでタッチアンドゴーみたいという理屈は人々に一見分かりやすく感じるかもしれない。そうしてバスタッチという名前の構造物ができましたというのがよく聞く話です。

意外とバスタッチの話題をインターネット上では見ない中、バスタッチそのものではないけど貴重な記録として以下のリンクを貼っておきます。

www.miyanomayu.com

 

個人的にはそもそも当時の拓殖バスは中心部を片循環運行している療養所線以外は帯広駅前起終点(バスターミナルまで走ってる便もありますが)だったので、ターミナルではない論を強硬に唱えられるとちょっとどうなのって思ってしまいます。

それと「タッチアンドゴー」論が大手を振っているのも疑問でその理屈じゃ乗客は乗降できないしって思ってしまいます。じゃあタッチはどこから来たのかというとおそらく船舶が寄港する意味のタッチから取ったのではないかと推測します。本当は船舶が寄港して貨客を搭降載してまた次の寄港地へ向かっていく様をバスに準えたのではないかと思いますが、まあ船舶ほど長時間停車しないし話を短く分かりやすく伝えるにはタッチアンドゴーは楽ですよね。

 

前置きはほどほどにして本題へ。

帯広駅前バスタッチは帯広駅の東側、西1条と西2条の間に作られました。バスの乗り場は8バース、イトーヨーカドー横の中央バスターミナルと違い場内は一方通行ではなく対面通行なので乗り場は南北両側に置かれています。南11丁目通からバスタッチ西側出入口までは供用前は南東向き一方通行でしたが供用後はその区間のみ対面通行になっています。(バスタッチ出入口から西1条通までの区間は変わらず南東向きの一方通行)

東側はなぜか北西から南東に向かう一方通行の道路が優先道路で、バスの通る西1条通からバスタッチ東側出入口に繋がる南北の道路のほうが幅員は広かったですがこちらに一時停止の標識が設置されていました。

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 ↑黄色は十勝バス、赤色は拓殖バスの乗り場

 1987年の開業当時の乗り場は以下のように使われていました。

1番 (あかしや団地・江陵高校線含む)札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

2番 大谷高経由営業所行き(音更方面各線着)

3番 大正経由広尾方面各線(依田線以外の国鉄広尾線代替バス含む)

4番 新町線着→芽室線・新得線発

5番 拓殖バス木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)

6番 十勝バス木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)

7番 市役所・西5条経由営業所行き(広尾方面各線着)

8番 芽室・新得線着→新町線発、白樺通経由営業所行き(札内方面各線着)

 

1989年11月改正冬ダイヤで拓殖バスの一中線が富士銀前始発・かじのビル前終着をやめ、バスタッチまで延伸してます。

 

1990年4月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

1番 (あかしや団地・江陵高校線含まない)札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

市立病院線が廃止になり南商線に系統分割(短縮)してあかしや団地線と同一車両で運用。南商・あかしや、江陵高校線の駅前バス停はバスタッチから市立病院線で使っていた富士銀前・かじのビル前へ。

 

1991年4月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

4番 新町線着→芽室・新得線発、芽室・新得線着→新町線発

8番 白樺通経由営業所行き(芽室方面からの到着が4番へ移動し白樺通専用に)

話は逸れますがこの頃の新町線は毎年ダイヤ改正の度に変更が加えられていてちょっと興味深いです。

1989年10月改正(?) 35系統新町線と芽室線・新得線(国道経由)に駅前で系統分割(運用は同一車両)

1990年4月改正 新町線がそれまでの西町〜南町3丁目(現在の西18条2)〜白樺通19条〜大江病院経由から柏林台通全通で北町5丁目〜西陵中学校〜三七北に経路変更。新町線の系統番号を35から36へ変更。芽室線大減便(19往復から8往復へ)

1991年4月改正 芽室線・新得線の市内区間を国道から柏林台通経由(新町線と同一経路)に経路変更。便数の減った国道14号〜国道西22条間は大空団地線の経路変更で対応。

 

1993年11月21日改正で十勝バスの乗り場に変更がありました。(変更分のみ記載)

1番 大谷高経由営業所行き(音更方面各線着)

2番 新町線着→芽室・新得線発、芽室・新得線着→新町線発

4番 札内・幕別方面各線、依田線(国鉄広尾線代替バス

6番 木野経由音更方面各線(国鉄士幌線代替バス含む)、戸蔦線(柳月駅前店前から移動)

この変更は何の理由があったのか不明です。

 

意外とバスタッチの乗り場の変遷が多く長くなりそうなので今回はこの辺で。

 

 

広尾町のバス会社全7社の記録を辿る

十勝で最も歴史のある町で最南端の港町広尾。十勝地方に鉄道が来るまでは十勝で最初のものが広尾から広まったり最古のものが今も残ったり。内陸の帯広が拓けるまでは広尾と大津が十勝で一二を争うくらい勢いのある町でした。そんな広尾の街に路線バスが走った記憶を探してみましょう。

 

広尾市街に乗用自動車が登場したのは1918年10月9日。元河西支庁長諏訪鹿三氏が選挙運動(何の選挙かは不明)のために帯広の笹島吉治郎氏が営業許可を受けた車に乗ってやってきたのが最初と言われています。季節は秋で農作物の出荷がピーク。広尾までの道中、見慣れぬ自動車に驚き転覆したり側溝に落下する馬車が続出し到着は遅れ、広尾市街入口である楽古の坂上に着いたのは夜の8時になったそうです。そこで一行が見たのは火事のような明るさにに包まれた広尾市街地でこれは大変と急いで駆けつけてみればなんのことはない。その日は広尾市街に初めて電燈の灯りが点いた日でもあったのでした。この時の自動車を運転していたのは山畑竹之助氏。この山畑氏は後に広尾の路線バスに大きく関わっていくことになります。

 

広尾最初の乗合自動車は1919年の秋(月日は不明)栄定男氏が帯広までの運行を始め、続いて1922年(月日は不明)に竹腰広蔵氏、奥田太郎氏、秋山某氏と続々と事業を行う者が現れます。栄氏が始めた頃の帯広までの運賃は一人15円もしくは20円だったものが10円になり、奥田太郎氏の奥田自動車部が定期運行を始める1925年(月日は不明)には運賃は5円28銭になります。1926年3月1日に十勝自動車合資会社が発足しますが代表者は竹腰広蔵氏、無限責任社員は山畑竹之助氏と栄定男氏という広尾で乗合自動車事業を始めた者が多い布陣になっています。

芽室町の回でも書いたように1928年の年始までには十勝乗合の代表者は野村文吉氏に代わり竹腰氏は帯広の西隣の芽室で新たに乗合自動車事業を始めますが、同じく広尾では山畑氏が元野元吉氏、高松彦三郎氏、佐藤富治氏と新たに乗合自動車会社を興します。それが1928年9月22日に創立した(広尾)金線自動車合資会社になります。広尾金線は翌1929年6月から郵便物の逓送を委託され1931年には26人乗りのバス車両を導入するなど順調な滑り出しをしたように見えました。

 

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 (広尾町史年表より一部を切り抜き転載。上が金線自動車)

 

1929年11月2日に国鉄広尾線は中札内まで開業するものの広尾まではまだ遠く、広尾帯広間の旅客輸送は乗合自動車が主流でしたが事業者が広尾金線・十勝自動車・奥田自動車・大印自動車の四社と多く競争はやがて行き過ぎた運賃値下げへと発展します。

それまでも1926年7月21日の東京相撲帯広興行では往復6円、国鉄広尾線が大樹まで開通した1930年10月10日大樹で行われた式典参加者を狙い広尾大樹間を1円で運行したりしていましたが、1931年には広尾帯広間で1円、ついには更に半額の50銭にオマケの手拭いを付けるというところまで行き着いてしまいます。

この競争に一番迷惑したのは広尾市街でタクシーを営業していた福西芳夫氏や(東陽館の)元野栄太郎氏で「帯広まで行っても50銭でオマケに手拭いまで付くのにお前のところは隣まで行っても50銭とは何事だ」と言われ非常に困ったそうです。話は逸れますが東陽館の元野氏の災難はまだ続き1935年7月にシボレーの新車を購入したのに9月26日には大時化の黄金道路目黒橋先で激浪にその車を奪われてしまいます。

 さすがに50銭時代は長く続かず1932年9月21日広尾金線は廃業になってしまいます。すると翌日十勝自動車と奥田自動車は運賃を前日までの3倍の1円50銭に引き上げます。

 

十勝・奥田という二大バス事業者の他に十勝地方の海岸沿いではもう一つ忘れてはいけないバス事業者がいます。それが大津帯広間や止若糠内間などで力をつけていた大印自動車合資会社です。なぜか広尾町史、新広尾町史共に大印自動車についての記述が本文中にはなく資料や年表に載っているのみなのですが、その大印自動車は大樹町史によると1927年7月に広尾帯広間の運行を開始し、広尾町史年表125ページによると1934年に広尾〜サルル間を大型50人乗りバスで試運転したそうです。この路線、広尾町史年表ではサルルと書かれていますが十勝バス70年史の32ページの大印自動車の項ではルベシベツと書かれています。大印自動車のサルルがどこかは不明ですがこの路線を受け継いだであろう十勝バスの広尾〜ルベシベツ間は路線距離が11.92kmでこれは今のジェイ・アール北海道バスの留別バス停とほぼ同一です。大印自動車の広尾サルル間の本運行は同じ1934年11月3日からとのことですがどこに車庫を置いたかは分からず仕舞いです。車庫といえば同じ1934年の12月には十勝自動車は本通7丁目に支店車庫を新築したそうです。

 

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(1934年末の広尾町内バス路線図。黄色は十勝自動車、水色は大印自動車、奥田自動車や大印自動車が広尾市街のどこを起終点にしていたか不明)

 

 戦後の1946年11月25日には省営バスことのちの国鉄バスの運行が様似へ2往復、日勝目黒へ3往復で始まります。最初の仮庁舎は楽古の廠舎に置かれますが翌1947年12月には今の帯広日産広尾店の場所である当時の字茂寄基線1に移転します。町史には事務所車庫職員宿舎が街の形態に一層の重きを加えたと書かれています。

また、1954年11月からは今の十勝バスである帯広乗合の広尾〜豊似〜上豊似2往復の運行も始まります。

 

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(1954年末の広尾町内バス路線図。黄色が帯広乗合、青色が省営バス)

 

国鉄末期の1981年11月20日国鉄バス広尾支所は今の十勝バス広尾営業所の場所へ移転して広尾市街の路線が丸山方面で少し延長されます。

 

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 (1981年11月20日広尾町内バス路線図。黄色は十勝バス、青色は国鉄バス)

 

1987年2月1日に国鉄広尾線は廃止され翌日から鉄道代替バスが十勝バスによって運行されます。この改正で十勝バスは旧広尾駅に入込みを開始して快速便は旧駅前が終点、普通便は7丁目から延伸して役場前が終点になりました。JRバスは再び旧駅前が起終点に戻りました。

 

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(1987年2月2日の広尾町内バス路線図。黄色が十勝バス、青色がJR北海道バス

 

この後1993年4月までに十勝バスの路線は快速便の旧駅前終点普通便の役場前終点を役場前〜柔剣道場前〜神社前〜丸山3丁目〜桜ヶ丘団地〜営業所まで延伸運転したり、1994年4月改正から1999年11月までシーサイドパーク前への入り込みを開始したり、

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(1993年4月の広尾市街バス路線図。JRバスは変更がなく省略)

 

更に2011年4月には広尾小と広尾第二小の統合で遠距離通学になる児童救済のため経路を変更した今の形に至ります。

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(2011年4月の広尾市街バス路線図。旧広尾小学校は役場北側。新広尾小学校は旧広尾第二小学校の校舎を使用。JRバスは変更がなく省略)

 

広尾市街に存在したバス会社の車庫。

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(黄色まは十勝バス、青色は国鉄バス、白色は金線バス。丸数字は置かれた順番)

 20.5.1追記 十勝バスの2代目広尾車庫が抜けていましたので追加しました

最後に山畑竹之助氏について。本通12丁目に山畑商店という今は製麺を主にする会社があります。町史の本文では特に記述がないのですが1959年4月の町内商工業者の現況一覧に山畑商店と山畑竹之助氏の名前が出ています。同一人物なのか初代と二代目なのか分かりませんが金線自動車の後は米穀食品業になり今の山畑商店に至っているのかもしれません。

 

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広尾町史551ページより最下部の電話番号を省いて転載)

夏季多客期は観光路線と増便の季節 その2

zentokachinoriai.hatenablog.jp

の続きになります。下の路線図の左上辺りのお話になります。

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【2】然別湖トムラウシ系統

 

(1)帯広駅〜瓜幕〜然別湖〜山田温泉(拓殖バス)

帯広〜(瓜幕)坂下のバス路線は十勝の内陸ではわりと早めで1927年に開業。その路線が1932年に然別湖手前の白雲橋まで、1934年には然別湖畔の光風館へと延びていきました。そして遅くとも1960年には山田温泉へと拓殖バスの路線は伸びていきました。山田温泉から先、幌鹿峠や糠平へと続く道路は先述の通りまだ工事が始まっていませんが拓殖バスとしては当然帯広・新得〜鹿追〜然別湖〜山田温泉〜糠平温泉という周遊コースの輸送を狙っていたでしょう。1961年には帯広〜山田温泉直通2往復と山田温泉〜然別湖の1往復が走っていましたが翌1962年には然別湖止まりの便を山田温泉まで直通させ夏休み期間中のみ急行も走らせるといった力の入れようでした。拓殖バスの然別湖・山田温泉と国鉄バスの襟裳岬からくる互いのバスが接続していたのも特長です。

夏休み期間の増便は無くなりましたがこの路線は今でも帯広駅〜然別湖の間で運行されています。

 

(2)南新得新得駅〜屈足〜岩松〜トムラウシ温泉(拓殖バス)

1965年7月10日それまでの南新得新得駅〜岩松の路線の一部の便を延長する形でトムラウシ温泉への乗り入れが始まりました。初めは年間通しで1日2往復走っていましたが1978年の時刻表では年間通しで走るのが南新得午後発トムラウシ温泉午前発の1往復となり南新得午前発トムラウシ温泉午後発1往復は夏休み期間中のみの運行へと減便されます。その後夏休み増便がなくなりトムラウシ温泉までの定期運行として時刻表で確認できるのは1986年夏ダイヤが一旦最後となります。足寄駅から出ていた奥芽登線や前回書いた然別湖糠平駅の拓殖バスの郡部ローカル線は1986年が最後の運行となった路線がいくつかあります。

翌1987年からは南新得〜岩松という元の路線での運行に戻るのですが長くは続かず遅くとも1993年には南新得〜トムラ登山学校までへと更に路線は短くなります。1992年の時刻表がなく1991年にはトムラ登山学校を中心とした温泉施設が開業しているので1992年から道道から登山学校への入口にある屈足34号〜岩松を休止して登山学校へ乗り入れた可能性はあります。南新得〜トムラ登山学校の路線は2018年4月20日で廃止となりました。

と書くのは正しいのですが今でも新得駅トムラウシ温泉の路線バスは夏休みの海の日三連休と北海道の夏休み期間中の毎日は予約があれば今でも乗車することができます。

www.takubus.com

1993年の時刻表にリゾートバス運行という欄があり時刻は載っていませんがトムラウシ温泉線の表記もあります。 最初は予約制ではなくトムラウシ温泉行き1便、新得行き2便の運行でしたが1999年にはトムラウシ温泉行きも2便になりました。毎年夏ダイヤが発表になる頃にはトムラウシ温泉線の運行予定も発表になります。

 

次回は帯広から海沿いを目指した観光路線の話です。

夏季多客期は観光路線と増便の季節 その1

本当は7月20日くらいまでに書いておきたかった記事ですが季節は夏休みで観光シーズンですね。ということで今分かる範囲で夏の間に出ていた都市間バスを除く臨時便にどんな路線があったかを振り返ってみましょう。夏季増発は7月20日頃から8月19日頃までという北海道の夏休みに合わせたものが多かったですが、なかには6月1日から10月31日までや4月27日から11月3日までの運行というものもありました。

 

夏季多客期に増便増発路線延長のあった路線一覧(四角のバス停は国鉄駅接続、黄色は十勝バス、赤色は拓殖バス、朱色破線は道東バス、青色は国鉄バス)

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【1】阿寒湖系統

(1)十勝川温泉〜帯広駅〜上士幌〜阿寒湖(十勝バス)

 池北三町の回で書いたとおり十勝バスの帯広駅〜阿寒湖直通運行は1954年7月1日から始まりました。1959年夏の帯広駅前発阿寒湖行きの初便は道東バスの利別・本別経由阿寒湖行きより5分遅い6時20分発でしたが翌1960年には両社とも6時15分発になったようです。

また国鉄監修東北海道観光の旅時刻表に掲載されてる時刻を見ると1960年から十勝バスの阿寒湖行きは4往復中2往復が十勝川温泉まで直通運行を始めたようです。1961年の東北海道観光の旅時刻表では十勝バスの阿寒湖線は2往復に半減していますが帯広発朝・阿寒湖発午後の便にあかん号、帯広発午後・阿寒湖発午前の便にへいげん号、上士幌経由の阿寒湖線自体には大平原コースという愛称が付きました。

1962年には十勝バスの糠平〜阿寒湖直通運行が始まり、この糠平直通便には特急ぬかびら号という愛称が付きます。前年から始まったあかん号やへいげん号も同じく特急となり帯広発着特急が2往復、糠平発着特急が1往復となります。この特急ぬかびら号でも帯広との行き来ができるよう当時の上士幌営業所(今の上士幌バス停)で接続する糠平急行が運行され始めてもいます。

1965年の東北海道観光の旅時刻表では特急ぬかびらに接続していた糠平急行が特急へいげん号となり、それまで特急へいげん号が担当していた帯広発午前・阿寒湖発午後便の愛称が特急とかち号に、帯広発午後・阿寒湖発午前の便が特急あかん号に変わりました。

1968年には特急へいげん号は再び愛称無しの急行に格下げになったようですが十勝川温泉〜糠平温泉の急行は2往復運行されています。この年までに足寄駅や登山口にも停車するようになり、阿寒湖行き特急あかん号は始発が十勝川温泉から帯広駅前に変わっています。(とかち号は十勝川温泉始発のまま)

 

(2)帯広駅〜(十勝川温泉)〜利別〜足寄〜登山口〜阿寒湖(道東バス)

十勝バスの阿寒湖直通便より一月先に始まった道東バスの阿寒湖直通運行は帯広駅から利別を経由する元々の自社路線に沿った形で始まります。1959年には阿寒湖行き3便、帯広行き4便が運行しており、1960年には帯広発2便目と阿寒湖発午後1便目で十勝川温泉経由の運行も始めたようです。

十勝バスに遅れること一年、1962年には道東バスの阿寒湖線にも愛称が付くようになりました。帯広発と阿寒湖発どちらも出発時刻の早い順に第1・第2・第3まりもとなりコース名は大草原コース、帯広発十勝川温泉経由1便は急行銀鱗号となりコース名は銀鱗コースと名付けられました。

1965年の東北海道観光の旅時刻表に道東バスの阿寒湖線としては初めて種別の記載が出てきます。下り阿寒湖行きは特急第1まりも、(十勝川温泉経由)急行銀鱗号、急行第2まりも、特急第3まりも、急行第4まりもの順。上り帯広行きは特急第4まりも、特急第1まりも、特急銀鱗号、急行第2まりも、急行第3まりもの順でした。特急と急行の違いは今となっては知ることは難しいのですが、所要時間は帯広足寄間で特急は最速92分急行100分、足寄登山口間で特急59分急行61分、登山口阿寒湖間で特急29分急行30分と比べてみると確かに特急のほうがわずかに早くなっています。

1968年には下り特急第3まりもと上り特急第1まりもが年間通しの運行になりました。

 

(3)阿寒湖〜登山口〜雌阿寒温泉オンネトー(道東バス・十勝バス・阿寒バス)

1959年には阿寒湖〜雌阿寒温泉を1日2往復、1960年には登山口〜雌阿寒温泉を一日4〜5往復の観光路線として運行しますが、1965年には一日11往復に便数が増えオンネトー発初便と登山口発終便の2便は阿寒湖まで延長運転を始めます。

1978年の時刻表では阿寒湖〜登山口〜オンネトーや登山口〜オンネトーといった基本系統から登山口〜雌阿寒温泉雌阿寒温泉オンネトー雌阿寒温泉〜登山口という乗務員の昼食中断などの都合が垣間見れる系統、足寄駅〜茂足寄〜登山口〜雌阿寒温泉オンネトー〜登山口〜茂足寄〜足寄駅という乗務員の送り込みが推測される系統もあり更には登山口で帯広〜阿寒湖線と接続を取るという短いながらも時刻表を見ているだけで楽しくなる路線です。この年は登山口〜雌阿寒温泉区間で12往復でうち8往復が阿寒湖発着、十勝バス最終年の1984年はオンネトー行き(最終便のみ雌阿寒温泉行き)が5便、登山口方面行きが6便、そのうち阿寒湖発着は3往復で最終便以外は6月から9月末まで、最終便のみ7月から9月末までの運行でした。

1985年からの阿寒湖〜オンネトーの路線バスは阿寒バスが4往復運行することになりました。最初の1985年は阿寒湖発オンネトー行きの始発が9時50分と各地からの到着便と接続を取る時刻でしたが、それだと雌阿寒温泉ユースホステル宿泊客の行動開始が遅くなってしまうからなのか翌年にはかつての十勝バスと同じような8時前発になりました。時刻はその年によって微調整されていますが1998年には阿寒湖発6時50分という阿寒湖に拠点がある阿寒バスならではの時刻で運行されました。

 

(4)然別湖糠平温泉〜上士幌〜阿寒湖(拓殖バス・十勝バス・道東バス)

先述の通り1962年には十勝バスの糠平〜阿寒湖直通運行が始まり、この糠平直通便には特急ぬかびら号という愛称が付きます。そしてこの1962年には糠平〜山田温泉間の幌鹿峠を越えるルートの道道の工事が始まり、1967年には然別湖〜山田温泉〜幌鹿峠〜糠平温泉という山の間の観光道路が開通し夏季は大型バスの運行も可能になります。幌鹿峠の西側の然別湖や山田温泉は既に拓殖バスの路線網であり幌鹿峠の東側の糠平は阿寒湖や帯広への路線がある十勝バスのエリアで足寄から先の阿寒湖までの間に一大路線網を持っている道東バスも当然路線の免許を申請する権利があります。

 ここでちょっとややこしくなるのが上士幌から足寄の間は拓殖バスの路線が最初にあり十勝バスの阿寒系統は後から出来たというところで、拓殖バスとしても権利が認められず十勝バスに免許が認可されてしまうと上士幌・糠平経由で帯広と然別湖の間を結ばれる可能性があり自社の既存路線が危うくなるというところです。

ここ幌鹿峠越えの路線の免許申請は1963年12月19日拓殖バスの然別湖〜阿寒湖133.9kmに始まります。続いて翌1964年2月5日十勝バスの山田温泉〜阿寒湖135.0km、二日後の1964年2月7日道東バスの山田温泉〜阿寒湖141.4kmと役者が揃います。(キロ数は十勝バス70年史58pより)十勝バスや道東バスが然別湖ではなく山田温泉までの路線で申請したのがちょっと面白いところで理由が気になるところです。正確な理由は分からないですが拓殖バスの方が先に申請してるので拓殖バスを刺激したくなかったという理由は考えにくく、然別湖畔で車両を停める場所が確保できる見込みがなかったとか然別湖から山田温泉までの間の道路の幅員が狭く見通しも悪いので山田温泉までにしたのではないかと考えられます。

幌鹿峠関連では十勝バスが同じ1964年2月5日に十勝川温泉〜山田温泉という路線も申請しています。これに対し拓殖バスは同年8月2日にキロ数は違いますが同じ十勝川温泉〜山田温泉という路線を申請し、更に道東バスも同年12月12日に帯広駅〜山田温泉という路線を申請するという加熱具合です。

道道の開通から2年経った1969年6月、ついに裁定は下ります。結果は然別湖〜阿寒湖は十勝バスと道東バスで2往復ずつ、然別湖糠平駅のローカル輸送は拓殖バスに5往復というものです。十勝川温泉あるいは帯広駅〜糠平〜山田温泉という路線に関しての記述は十勝バス70年史にはありませんが三社いずれにも認められなかったようです。

ということで然別湖〜阿寒湖の路線は十勝・道東の二社で運行したはずなのですが十勝地方では民営バス三社の経営統合が話し合われ始める時期でもあり、実際1971年には十勝バスと道東バスは合併するような時期でもあり道東バスの然別湖〜阿寒湖線に関する資料は他の道東バスの路線に比べても格段に少なくなっています。

 

 一旦ここまで。続きは然別湖から西側と太平洋側の夏路線についてを予定しています。

停名地名不一致の謎 第4回 雄飛が丘と銀翼の沢

十勝地方の鉄道史はそれなりに数がある一方、バス史は少ないよねということで始めたこのブログですが同じく歴史があるわりにほとんど出てこないのが十勝地方の航空史です。

 

帯広周辺でバスが走り始めた頃、帯広士幌間で国鉄士幌線の開業に向けた工事も終盤という頃に十勝地方で飛行機を飛ばそうという人達がいた、と書くとそんな馬鹿なと思われる方もいらっしゃるでしょう。千歳空港もまだ完成していませんし千葉県以北に飛行場は無いとも言われた頃です。

この時十勝の航空史にとって幸運だったのは士幌線の工事で来ていた加藤勘之丞という技師がいたことです。街の青年に懸命に飛行機熱を植え付けるほどの情熱家加藤技師と血気盛んな青年たちの民間飛行場設置活動が始まります。加藤技師は発明家というニックネームを付けられるくらいに音更では有名人だったようですが、残念ながら加藤技師が士幌線工事を行っている間に資金調達に応じてくれる人物は現れず彼は今のニッタクスの新工場建設のため止若(今の幕別市街)に移ります。しかし残った地元有志は音更民間航空設置期成同盟を作り、軍の協力もあったりという時勢柄なのかトントン拍子に1925年5月13日飛行場開きを行います。

 

この前後の話はなかなか興味深いものが多く、興味を持たれた方はぜひ音更町史や飛行場跡巡りをされている方のサイトなども併せてご覧になっていただければと思います。せっかくできたこの(初代)音更飛行場は残念ながら1929年の春には使われなくなってしまいます。

 

kujikobo.com

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

 

さて、このブログの主題であるバスの話に音更の飛行場がどう関係するのか。今の緑陽台小学校の南西から鈴蘭小学校にかけての一帯に1940年市設帯広飛行場が造られます。

 

airfield-search2.blog.so-net.ne.jp

 

この飛行場。陸軍からすると帯広第二飛行場ですが一般には何と呼んでいたでしょうか?最初の音更飛行場は既になく区別する必要がないので新飛行場も音更飛行場。また市設というように元は民間利用を目的として都市の発展のために造られた新飛行場ですので周辺の土地に目をつけた人々は高台の上を「雄飛が丘」、手前の鈴蘭川上流の小沢を「銀翼の沢」と名付け別荘地として宣伝し始めます。言葉としては雄飛が丘に対するなら雌伏の沢でも良かったのにと思いますがそれでは語感が良くなく宣伝にはならないですね。そして雄飛が丘にある飛行場ですので雄飛が丘飛行場という記述も音更町史にあります。しかし今の緑陽台から北鈴蘭にかけての一帯が雄飛が丘というのは当然今の音更本町の高台にある雄飛が丘の位置とは違います。本当にこの辺りが雄飛が丘や銀翼の沢だった証拠はあるのでしょうか? 

戦前の非公式な地名なので何も残ってない可能性もあるかと思いましたが、この地図の真ん中を流れる川の中心付近にある公園が「ぎんよくの沢公園」と言います。平仮名ですが今となっては銀翼の沢の名を残す唯一の施設かもしれません。バス停だと拓殖バスの共栄団地が一番近そうです。この付近でかつての雄飛が丘の痕跡は現地を探索しても見つからない可能性が高そうです。 

 

さて、もう一方の拓殖バスの行き先にもなっている今の雄飛が丘。今の場所に使われるようになった経緯はよく分かりません。あくまで可能性の話と断った上で私の考えを。

音更町の字名改正は意外に遅く1976年から始まります。この時に音更本町(音更大通)の西側の丘の上にできていた住宅街に本町側と比べて細かく地名を付けました。本町側と東西で対比させると、

大通1丁目 対 柏寿台・雄飛が丘北区

大通2・3丁目 対 北陽台・雄飛が丘仲区

大通4〜6丁目 対 桜が丘・桜が丘西・雄飛が丘仲区

大通7〜11丁目・元町 対 雄飛が丘・雄飛が丘南区

大通12〜17丁目 対 住吉台・緑が丘・希望が丘・南住吉台

のようになります。本町側は元町以外大通何丁目で済むのに対し、丘の上は本町側の丁目と同じ丁目を新しい地名に付けたり、または新しい地名に条丁目制を採用することなく一生懸命新しい地名を考えて付けています。この時なるべく新地名は新しく造られる施設にちなんだ地名にしようともしたように感じられ、それは老人ホームがあるから柏寿台や緑ヶ丘病院が来るから緑が丘(ヶの字が病院と変わってますが他との統一性を考えたのでしょう)に表れていると思います。ちなみに十勝バスの音更桜ヶ丘と音更桜ヶ丘西のバス停は実際の地名である桜が丘や桜が丘西と「が」の字が違います。これは単純に違いに気付いてないだけでしょう。

 

では肝心の雄飛が丘はどうなのか?まず雄飛が丘の南隣り、希望が丘の生涯学習センターに(初代)音更飛行場跡地の碑が建っています。希望が丘にはこのほか帯広大谷短大温水プール、運動公園などの文教施設があります。北側の雄飛が丘には音更中学校や総合体育館があり同じく文教施設の一画です。

つまり希望が丘と雄飛が丘は不可能と思えた飛行場設置と飛行機導入を実現し民間航空界の進展に貢献しようとした先人にちなみ、町民や若人に希望と大志を抱いて盛んに活動してほしいという意味を込めたからこそ本来の地域から多少離れてでも初代飛行場のこの地域に二代目飛行場の通称を付けるというハイブリッド思想で希望と雄飛の名を付けたかったのだと考えます。先人の想いや願いが通じたのかどうか、音更町は北海道で一番人口の多い町になりました。

竹腰さんと野村さん

ここまでの記事や十勝バス70年史を読んだ方は既に十勝自動車合資会社は1925年竹腰広蔵氏によって創立され1928年までには竹腰氏から野村文吉氏に経営が移ったことはご存知かと思います。しかし竹腰氏や野村氏は先祖代々明治以前から十勝の住人だったかというと当然そんなことはありません。十勝バス70年史に野村氏が十勝自動車の経営に関わった経緯が載っていますがそもそも竹腰氏や野村氏はバス事業を興すために十勝に移住してきたわけではなく、ではバス事業に関わる前は何をやっていたのだろうという疑問が出てきます。これまでと大きく趣向が違いますが今回はそんなお話です。

 

十勝バス70年史に記述のあるとおり、野村氏も竹腰氏も今の滋賀県のご出身です。野村文吉氏の名前が十勝の各市町村史に最初に出てくるのは1902年10月28日に開設された足寄太駅逓の初代取扱人としてになります。初代の駅逓は芽登街道入口付近にあり1910年に鉄道駅が出来た際に市街の移動があり駅逓も神社入口(今の足寄農協前バス停)付近に移転します。野村文吉氏は一年ほどで足寄太駅逓の取扱人を辞任しますので、のちに文吉氏の子息で1906年生まれの野村勝次郎氏が帯広百年記念館の出した「ふるさとの語り部第8号」で行った受け答えに足寄時代の話がなく渡島の上磯から帯広へ引っ越したという回想も不思議ではありません。

 

さて、ここで少し気になるのが神社の入口へ移転する前の足寄太駅逓の場所です。足寄町史では「芽登街道の入口付近にあり」という三代目取扱人の上田喜七氏の長男喜一氏の話を載せています。これだけを見ると今の足寄市街南端郊南1丁目付近の国道分岐点がまさにという感じがしますが、今の国道は改良されていることを忘れてはいけません。では改良前の旧芽登街道はというと昔の地図や航空写真を見れば一目瞭然。今の足寄交番やセイコーマート、十勝バスのバス停でいうと足寄南6条や廃止になった拓殖バスの学校入口バス停のある交差点から中学校や高校へ上がる坂道が旧芽登街道になります。

足寄太駅逓の建物は38坪。これに取扱人用の畑や馬用の施設があったことを考えるとそれなりに広い敷地が必要になります。きちんと資料に当たった訳ではなくあくまで仮説ですが、足寄南6条バス停の近くにそのような広い敷地が今でも残っているかと考えると足寄南6条というバス停名になる前は足寄営業所前という名前だったとある施設が気になります。それはかつての十勝バス足寄営業所の敷地です。以前は足寄交番の南東角に駅逓跡の標柱が建っていましたが今は朽ちて倒れた様子がグーグルのストリートビューに写っています。足寄交番から十勝バスの旧足寄営業所敷地くらいまでがかつての駅逓だったのかもしれません。十勝の駅逓について一番親切に書かれているHPもご参照ください。

www.kitakaido.com

 

 さて話は戻り今度は竹腰広蔵氏の十勝入りです。竹腰氏の名前は音更町史に滋賀農場の支配人の一人として出てきます。音更町史の464ページ北糖農場の項によると「その前身は滋賀農場である。明治三十年代の末期に創設されたが、経営が軌道に乗ったのは、四十年代になってからである。」とあります。竹腰氏がいつ十勝に来たのかという情報は無く創設と同時に音更に来たのか不明です。ただ「大正十年、滋賀農場の経営者が代わったのを機に退いた。」という記述があり、この大正十年=1921年は竹腰氏が帯広で路線バス事業を始めた年と一致します。竹腰氏は滋賀農場の支配人を辞め、路線バス事業を始めたと言えそうです。

 

野村氏も1919年には既に帯広に居り、同郷の二人は当然交流もあったでしょう。もし交流がなければ十勝自動車はとうの昔に廃業し今頃十勝の路線バス事業者は十勝バスと拓殖バスではなく、大印バスと奥田自動車、中央乗合といった会社が残っていたかもしれません。昭和初期の野村氏は本業ではなかったバス事業に関わりを持ったほかにも映画館にも関わりを持つことになります。1918年に西1〜2条仲通で開業した神田館から改名した美満寿(ミマス)館という映画館で1928年フィルムから引火する事故が起こったからです。映画館事業はあまり記録に残っておらず野村氏がミマス館に関わった期間は短かったようですが、ミマス館は1977年まで存続しました。

 

面白い共通点としては両者とも十勝での始まりであるはずの地域へのこだわりがそれほどないように見受けられるところです。当然本人に確認をとったわけではなくあくまで各市町村史の記述からそう感じるだけなのですが、野村氏が足寄町への路線を持つことになるのは戦時統合の時期を除くと阿寒湖への路線から。竹腰氏が再起を期すための街として選んだのは音更町ではなく芽室町。どうしてそうしたのかはその時代の空気感を感じないと分からないでしょうが、そこに確かな商才があったから厳しい時代を乗り越え今でも十勝バスとして生き残ってきたのでしょう。

広尾線の歴代所要時間

かつて片道4時間ほどかかっていたと言われる帯広広尾間のバスですが、比較的辿りやすいこの30年ほどの間でどのように所要時間が変わってきたのか見ていきましょう。

 

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1977年夏ダイヤ時には既にヨーカドー西隣のバスターミナルが使用されており広尾線はターミナルが始発でしたがここでは比較しやすいように帯広駅前の時刻で考えます。大樹は時代によって市街中心部のバス停が変わっています。

 

1977年〜1986年は鉄道代替開始前で広尾市街は本通7丁目が終点です。上札内・尾田経由の方が更別・忠類経由より所要時間が少し長くなっています。1984年には中札内〜上札内間と上札内〜尾田間で2分ずつ、尾田〜大樹(2条通り)間で4分短くなっていますがはっきりとした理由は不明です。

1987年は鉄道代替が始まった頃で快速便の運行が始まりました。全20ヶ所しか止まらないだけあり帯広広尾間で2時間を切る俊足ぶりです。鉄道代替を始めても元からの路線に対し大きく逸脱する区間は旧大樹駅に入り込む快速便の走る部分くらいだったのもあり、普通便は鉄道代替が始まっても所要時間にそれほど差はありません。

 

帯広広尾間の所要時間が変化があるのは2001年帯広市内の経路が大通りから西5条経由に変わった時になります。この改正時にはまだイトーヨーカドーの玄関前へ入り込みをしませんでしたが帯広〜広尾(旧駅)間は再び2時間10分台になります。さらに、イトーヨーカドー玄関前入り込み、更別市街の経路変更、大樹コスモールの供用開始、広尾市街の小学校統合に伴う経路変更によって主要時間は伸び続けています。遠距離の利用者を増やすには帯広駅〜イトーヨーカドー間だけでも区間快速のような形で所要時間を短くする方法もあると思いますが、今後の路線の見直しのなかでそのような話題は果たして出てくるでしょうか?